風のように自由に生きる


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                                                   渇いている君に (下)
                                                   ヨハネ7章37―39節


                              (3)
  最後に39節は、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。…」と記しています。

  イエスが今語って来られたのは、イエスを信じることによって授けられる神の霊、聖霊のことであると言います。聖霊が私たちの渇きを癒す命の水だと語るのです。

  コリント後書3章に、「霊のおられる所に自由があります」とあります。霊はギリシャ語でプニューマですが、その他に風や息を指す言葉です。それは目に見えず、どこからか来て、どこに行くのか分かりません。私たちの心を捕えますが、霊を握り締めたり、人の力で自由に捕えておくことは出来ません。

  「わたしのところに来て飲み、 わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出る」のです。聖霊は私たちに働いて内から活き活きと流れ出て来るのです。風のように自由な神の働きです。それは喜ばしい自由の霊です。その自由の霊に与る時に人は自由にされ、律法の縛りから解き放たれ、喜びと平和を与えられて活き活きと生きるようにされるでしょう。キリストにおいて、神の中に安らうことになるから風のように自由です。

  イエスは「真理はあなた方を自由にする」と言われましたが、自由とは真理による自由です。私たちが自由でないのは恐れのためです。恐れると何かにしがみつきます。夫にしがみついている女性が多くいます。息子にしがみついている母親も多い。先入観にしがみつく人もあります。囚われです。富を偶像にし、囚われている人たちも多くあります。自分にしがみつく人もあります。固執して放さない。しかし真理はあなた方を自由にするとイエスは語られました。イエスの所に行ってイエスから命の水を飲む者は、その腹から聖霊による自由の水が湧きあがるのです。

  そこにあるのは、律法的なこうでなければならないという囚われから解き放たれた自由な喜びです。キリストはこの自由を与えるために来られたのです。ガラテヤ書5章は、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」とある通りです。また、「ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。…霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です」と語っています。聖霊によって神の愛が私たちに注がれる時に、このような者へと造り変えられて行くでしょう。神がイニシアティブを取って造り変えてくださるでしょう。

  水が湧く水源と、水溜ではまったく違います。水溜は外から満たされる必要が常にあります。そのままでは腐ります。しかし湧いて流れ出る水源はそれ自体から自由に愉快に流れ出ています。信仰の喜びはそのような自由さを持っています。イエスが嬉しくてならず、マリアとマルタのマリアのようにみ言葉を聞くのが喜びになります。

  イエスの福音に満たされる者はそのように喜びが自由に湧き上がって流れるのです。また、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」のは、流れ出て他の者を潤すためです。流れ出て自分の命を与え、他の者たちを潤すことが喜びとなるのです。奉仕に生きたマルタの本来の喜びの意図はここにあったのです。

  「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」このみ言葉の中に、イエスにある者たちの他の人と肩を組んで共に生きようとする方向があります。



        (完)

                                           2016年8月14日


                                           板橋大山教会 上垣 勝




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