腹に固定観念が詰まっていたんじゃあ


  ローヌ川の向こうにHotel-Dieu de Lyon が巨大な姿を現し、背後の丘の上に白亜のノートルダム聖堂が見えました。
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                                                   渇いている君に (中)
                                                   ヨハネ7章37―39節


                              (2)
  イエスは「立ち上がって大声で言われた」とあることから、強い意志を持って、民衆に呼び掛けられたことが分かります。華々しい祭りの蔭で、多くの人が魂に渇きを抱いているのを知っておられたのです。

  イエスはむろん魂に渇きを持つなとか渇きを慎み深く隠せと言われません。人は元来渇くものです。渇いていいのです。渇きを隠すのでなく、自分の本当の渇き持ってご自分の所に向かうように呼びかけられたのです。また渇きの種別も問われません。この種の悩みの人は来ちゃあいけないなどと言われません。何かの悩みをきっかけに本当の救いに至るからです。

  私たちは誰でも、その内面に絶対的なものを得たいという強い渇きがあるのではないでしょうか。誰もがそれを熱望しています。愛への渇きは小さい子どもから年老いた人に至るまで、あらゆる人の中に燃えています。ところが最も素晴らしい親しさも愛の渇きを完全に満たすことはできません。私たちの愛の炎が一時は燃えても、いつの間にか飽きたり、萎(しぼ)んだり、消えたり、無くなってしまいがちです。

  私たちは大抵1杯の冷たい水が自分をすっかり生き返らせてくれた経験があるでしょう。その時決して止まらないと思っていた渇きがすっかり消えてしまったのでした。ところが内面の心の渇きの方は、それを満たそうとすればするほど渇きが酷くなる場合があります。特に歪んだ満たし方や誘惑に駆られて的外れな方向に逸れる場合がそうです。

  にも拘わらず、渇きを持つなとイエスは言われないのです。いやむしろ、本当の渇きを持って自分の所に来るようにと招かれるのです。

  以前にもお話しましたが、5世紀の初めにアウグスチィヌスはこう書きました。「主よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。それで、あなたの中に安らうまでは、私たちの心は安らぐことがありません。」神は、神以外のものでは決して癒すことが出来ない渇きを、私たちに与えられたのです。人間はこのような絶対的なものへの渇きを持つ者として誰もが造られているのです。それが色々なバリエーションを持った愛の渇きとなって現われるのです。

  そういう渇きを持つ人たちにイエスは、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われました。砂漠地方では水は絶対不可欠です。それがあるなしは命にかかわります。生きるのに絶対不可欠なその生きた水が、川となって、私を信じる者の内から流れ出るとおっしゃったのです。

  ここに聖書とあるのは、出エジプト記17章などを指しますが、モーセは、60万の民が砂漠で飲み水がなくて窮した時に、杖を持って岩を打つと、岩から水が湧き出て民はそれを飲んだと記されています。それと同じように、イエスは十字架上で磔になり、神に裁かれ撃(う)たれたのです。そしてこのお方から命の水がほとばしり出たのです。モーセが打った岩から水が流れ出、神に撃たれたイエスと言う岩から私たち全ての人をを潤す命の水が流れ出るのです。イエスはそういう少し分かりづらいことを比喩的に言われたのです。

  これは4章13節以下で、サマリアの女に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語られたこととも関係します。彼女は渇いていました。だから男を次々取り換え今は6人目の男と同棲している。それでも「この水を飲む者は誰でもまた渇く」だろう。そんなことをして男を変えて見たってあなたの渇きは止まらない。だが、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語りかけられたのです。

  「その人の内から生きた水が川となって」とありますが、生きた水とはほとばしり出る水です。ほとばしり出て命を与えるのです。むろんこれは霊的な意味です。

  それが「内から」流れ出るというのです。内からとは腹からと言う事です。口先から言葉が流れ出るだけではいけませんね。口先だけの言葉は実に軽いです。信用ならない。しかし腹の底から真実に出て来る言葉は信用できます。それは生きた命を与える水であると語られるのです。それは、活きた言葉であり、自分も他の人たちをも潤し、元気にするような言葉になるでしょう。

  ある英訳聖書は、「生きた水」と言うのを、Living water と訳しています。生きて流れる水です。新しく後から後から流れ出て、止むことがない水、湧き水です。

  キリスト教信仰はひと所に留まりません。神に立ち帰る故に繰り返して新しく革新され、歴史の中で改められて成長していきます。キリストが羊飼いのように先頭になって歴史の中を導いて下さるからです。信仰は一旦信じたらそこに止まってそのまま固定するのでなく、溜まり水のようなものでなく、せせらぎに似ています。神に立ち戻ってそこからまた発しますから、ダイナミックに生きて流れて美しいのです。人を潤す飲める水になります。

  その人の「内から」です。外からでなく、内からです。プロテスタント教会は「内から流れ出る」ものをしばしば警戒して来ました。内からは悪いものが出て来る。イエスは、「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7章)と言われたからです。確かにその側面は否めません。

  しかしイエスに根差す時には、今日の所にあるように、内側からイエスの賜物が、恵みが流れ出ると言われるのです。ですから、私たちは祈りの中で、私の内から、あなたの恵みが湧いて来る者にして下さいと願う者でありたいと思います。キリストの香りが香る者でありたいと思います。

  ある注解者は、その人の「内から」とある言葉を注解して、これは、「うつろな空間、空っぽな空間、何もない場所」を指していると書いて、そういう空虚の中からキリストの生きた水が湧きあがると書いています。味のある見方だと思います。

  どういう事かと言うと、私たちの心に色々な考えが詰まっていてはならないのです。詰まっていればキリストの新しい水は入って来ません。新しい水をコップに注いでも、古い水が入っていれば、中々コップは新しい水になりません。コップの古い水は一旦捨てて、初めて新しい水を素直に受け入れることが出来ます。腹に自分の固定観念が一杯詰まっていれば、自分の固定観念しか出て来ないで、キリストの恵みの言葉や賜物を素直に受け入れたり、恵みが腹から自由に湧き上がって来ないのです。

  フィリピ2章に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり」とあります。「かえって自分を無にして」です。イエスご自身も、ご自分が神の前で空しくなられたから、その腹から永遠の生ける水が湧き上がって、私たちを潤して下さるのです。


        (つづき)

                                           2016年8月14日


                                           板橋大山教会 上垣 勝




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