み手に委ねます


空港からRhone Expressで45分、リヨンのPart-Dieu駅の駅裏に着きました。路面電車ですが滑るように走ります。
                               ・


                                                  み手に委ねます (下)
                                                  ルカ23章44―49節



                              (4)
  47節以下を見ると、この時もう1つ、十字架の周りで不思議な事が起こったことが報告されています。ピラトの裁判から処刑に至るまで、ずっと責任を持って携わって来た百人隊長が、遂に口を開き、「本当に、この人は正しい人だった」と語って、神を賛美したのです。

  彼はイエスの事件をじっと見守って来たのです。部下たちがイエスを嘲り、目隠しして殴る者があり、唾する者があり、イエスの服を分け合うためサイコロを振って遊ぶ者たちや、様々な侮辱などをなす者。それに加えて祭司長や議員たちの策略や民衆への扇動など、不正や醜いことなどもじっと眺めて来た彼は、今や沈黙を破って驚くべき言葉で神を賛美したのです。マタイとマルコ福音書では、彼は、「本当にこの人は神の子であった」と告白したと記しています。

  百人隊長はこれまで各地で多くの処刑に携わって来ましたが、彼の目には、イエスの霊には少しも曇りがなく、神と人とに忠実であり、正しい人であり、神がこの人を世に送られた神の子としてしか映らなかったのです。息を引き取った後じゃあ後の祭りとは言え、彼はイエスを信じ、神を賛美したのです。彼はローマ人、異邦人です。彼自身の理解を越えて、神がキリストの死によってユダヤ人だけでなく全人類の罪が贖われたこと、全人類は例外なく誰でも神と交わる道が開かれたということの証人になったことをも示しているのではないでしょうか。ですから彼の告白は無意味ではなく、むしろ今後用いられるのです。

  不思議はそれだけでなく、イエスの処刑を興味本位で見に来ていた群衆が、この光景を目にして、「胸を打ちながら帰って行った」のです。深い感動を与えられて帰って行った。こういう事があったからこそ、やがて使徒言行録に書かれるような、一挙に数千人が洗礼を受けて仲間に加わる事件が起こって行くのでしょう。

  以上が、「み手に委ねます」という十字架の出来事で起こったことです。

  最後に、「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と、そっと加えられています。

  「イエスを知っていた全ての人たち」の中に、弟子たちが含まれているかも知れませんが、そのことはそっと暗示されるだけです。暫く前に彼らはイエスを見捨てて逃げ去ったから、こういう含みを持たせた書き方をしたのかも知れません。また、ガリラヤから従って来た婦人たち。ここにマグダラのマリアや母マリア、ゼベダイの子らの母などが含まれるでしょうが、彼らが一切の出来事を遠巻きにして見ていたのです。

  イエスの一切の出来事は、遠巻きにしているこの弟子たちと婦人たちに見守られながら起こったのです。この証人たちがいなければイエスの福音は私たちのところに届くことはなかったでしょう。また、福音書として書き留められることもなかったでしょう。

  そのことを思う時、今日、私たちがいるのは、今後も信じる群れが更に起されるためではないでしょうか。私たちは少しでも福音を運ぶ使者、福音を証しする者になって行きたいと思います。それが今日の最後の節から教えられることです。

          (完)

                                           2016年8月7日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・