煩悩から脱する道


ジュネーブからリヨンのサン・テクジュベリ空港迄は約2時間。星の王子さまの作者が今にも降り立ちそうな端正な空港です。
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                                                  み手に委ねます (中)
                                                  ルカ23章44―49節



                              (3)
  すると、イエスは声高く叫んで息を引き取られました。今日の46節は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、息を引き取られたとありました。マタイ、マルコでもこの大声のことが記されています。

  イエスは、父よ、私の霊をあなたの御手に託します。お預けいたしますと言われたのです。これは、詩編31篇6節の「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」という言葉とほぼ同じです。

  実は、この言葉はユダヤ人の子どもらが寝かされる時に、母親から子守唄のように最初に教えられる祈りの言葉だそうです。夜、誰もが唯ひとりで眠りの暗闇の中に入って行かねばなりませんが、その暗闇でも守って下さい。神の御手に委ねますと言う祈りです。イエスは母マリアから教えられた、三つ子の魂百までと言う諺にあるように、その祈りを十字架上で息を引き取る寸前に祈られたのです。幼い子供が、今日は2階で礼拝しておいでですが、赤ちゃんが母や父の腕の中で信頼して眠りにつくように、父なる神の御腕に安らかに信頼し、お委ね致しますと祈られた。人生の最期にそういう全幅の信頼で委ねられたのです。

  またここにある安らかさは、一切のなすべき業をすっかりなし終えた安らかさでもあります。ヨハネ福音書は、イエスが「成し遂げられた」と言って息を引き取られたと記しています。私たちから言えば、人類の救いはここに一切成就したのです。旧約聖書で預言されたことがここに成し遂げられ、イエスは安らかに神に委ねられたのです。そういう言葉です。

  また別の面からすれば、「恐れるな。あなた方はこの世では悩みがある。しかし、私は既にこの世に勝っている」と語られたことが、ここに実現したという事です。確かに今も私たちは地上で多くの悩みを抱えています。しかしイエスは既に私たちのために、世に勝って下さったのです。死んで死に打ち勝って下さった。

  ですから勇気を出し、恐れず、キリストに信頼して大胆に生きてよいのです。キリストは道なきところにも必ず道を切り拓いて私たちを導いて下さるからです。私たちは自分の影を見つめ過ぎちゃあならない。自分の闇、煩悩(ぼんのう)は誰にもあります。それを見つめて小説家などは深刻に、または面白おかしく書いて食っていますが、それに囚われて見つめ過ぎると不安になります。自分の影でなく、キリストの光を仰ぐ時にその煩悩から脱することが出来るのです。

  私たちはこの世で、何度も自分が弱い者であることを感じます。果たしてキリストに信頼して行って道があるのだろうかと不安が募ることもあります。だが信頼していくなら、キリストは私たちの心の中で、「私はここにいる。恐れることはない」と囁いて下さる。そして道が示され、必ず歩めるようにして下さるのです。

  パウロは、イエスの死と復活で起こった救いを書いて、「何ものも、神の愛から私たちを引き離すことは出来ない」と語りました。一人一人に与えられる神の愛は無条件的です。この愛は、私たちが神に向かって祈っていると、祈りの中で泉のように絶えず私たちの中に湧き上がって来ます。だから私は祈るのです。祈りの言葉がどんなに貧弱であっても、それがただ呟(つぶや)きのようなものであっても、しどろもどろで意味が通らないものであっても、キリストの前に出て祈る祈りは、神によって聞き分けて頂け、平安を授けられるのです。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」という出来事は、そのような神との交わりが開かれたという事です。

  それから、十字架のイエスが「み手に委ねます」と言われた時、ご自分の事だけを委ねられたのでなく、この全世界の救いをも神のみ手に委ねられたのです。ですから、私たちもキリストに従いながら、この世界にあって、あちこちで起こる暴力や環境破壊や貧困や不正を目にして、神に祈るように求められているのです。また日本が2度と侵略戦争をしないように祈り、再び原爆が使われないようにと祈りたいと思うのです。この祈りは、神から日本人キリスト者すべてに委ねられた極めて大切な祈りの課題です。8月第1週の日曜日の今日は平和聖日ですが、キリスト教会はこの祈りを永遠に捨てちゃあならない。

  そしてこの事柄において重要なのは、繰り返し、繰り返し、平和の源であるお方に帰って行くことです。なぜなら私たちの活動はいつの間にか干からび、習慣化し、固定化し、安っぽいものになり、命を失って、遂に内面の平和まで失ってしまうことが多いからです。

  私たちの心に神の平和が住んで下さるように祈らなければなりません。石の心を、血の通う柔らかな肉の心に変えて頂かなければなりません。そうでないと、正しいことを語っても愛がなくなっています。人の心を捕える感動的なことを語ったり、東京ドームで愛を絶唱しても、実際は本人に愛がなければ実に空しい。私たちの心が、神の憐れみと愛に満たされて、繰り返し新しく刷新されなければなりません。

          (つづく)

                                           2016年8月7日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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