魂の痛みを聞く
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犯罪者とイエス (上)
ルカ23章39―43節
(1)
この何週間かイエスの受難の個所を取り上げて来て、イエスを取り巻く世界が暗いのでうんざりしますが、聖書が一般的に世界を暗く見たり、悲観的に見ている訳ではありません。その辺を覚えながら今日の個所に入りたいと思います。
今日は先週の十字架上のイエスの続きです。イエスは、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と、十字架に付けた者らのために執り成されましたが、議員たちも、兵士たちも、嘲笑って侮辱するだけでした。今日の所では、十字架に付けられている犯罪人の一人までもがイエスを罵り、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と口汚く侮辱したのです。
彼は十字架の痛みと苦しみの余り罵(ののし)ったのでしょうか。それとも、人生の結末をこういう所で迎えなければならない自分に対するいら立ちの余り、誰でもいい、当れる者に当り散らしたのでしょうか。あるいは、罵りが彼のこれまでの習性になっていたのでしょうか。荒れくれ者の口癖で悪態をついたのでしょうか。本来なら自分を戒め、咎めねばならないのに、他者に攻撃を向けたということでしょうか。
いずれにせよ往生際(おうじょうぎわ)の悪い人間です。あわよくば他人のせいにして少しでも胸の仕(つか)えを取ろうとしたのかも知れません。「自分を救って見ろ。救えないだろう。自分を救えもしないのに大口を叩くな。俺たちの上に立とうとするな。」
その罵りに対して、イエスは黙って全身で受け止めておられました。一言も言い返されません。全身で受け止め、その魂の痛みをお聞きになっていたのです。真に聴く耳を持つ、世にまれな優れたカウンセラーのようです。彼を無視して沈黙されたのでなく、彼が過去に負ってしまった数々の魂の傷を思い、彼のためにも「父よ、彼らをお赦し下さい。何をしているのか分からずにいるのです」と、沈黙の内に切に執り成されたかも知れません。彼もまた神の救いを必要とする人間として、その心の渇きをご覧になられたでしょう。
今申し上げたいのは、イエスの救いの光は、この犯罪者の上にも、私たち全ての上にも届いていることです。こんな救いようのない者の上にも…。信じさえすれば救われるのです。もう救いに入れられ、義とされるようにすっかり準備万端整っているのです。しかし救いが個々人の魂に実現するには、ロマ書に「こころで信じて義とされ、口で告白して救われる」とあることが必要です。そうでなければ、機械的に万人が誰でも救われるという安っぽい救いになり、そんな救いは少しも喜びになりません。
もう一度申します。救いの光は彼の上にも既に届いています。自分の上にも照っているこの光を知り、それを感謝して受け入れるのを待っているのです。だが拒んでいれば、どんなに素晴らしい恵みでも彼の心には届きません。
(つづく)
2016年7月31日
板橋大山教会 上垣 勝
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