人類に語りかける丘の上の刑場


                            ルーブルにて
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                                               「彼らをお赦し下さい」 (中)
                                               ルカ23章32―38節
                                               詩編136篇


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  次にルカ23章ですが、ここには非常に重い問題が書かれていて気が重くなります。イエスが「されこうべヘブライ語ゴルゴタと呼ばれる処刑場に連れて行かれた時のことです。そこには、処刑された人の頭蓋骨が普段に転がっていたのです。気の滅入るような場面です。

  今日までの所を辿りますと、イエスは深夜から朝にかけて数か所を引き回され、最後は死刑判決を受けました。それだけでも疲労困憊したでしょうが、逃亡防止に鉄の鎖を手足に嵌められて重い十字架を担がされ、ヨタヨタした歩みで約1キロを歩かされたのです。途中、何度もよろけたり、持ち直したり、十字架を負ったまま倒れたり、また渾身の力を振り絞って起き上がったりして、刑場に向かわれました。また途中、通りかかったアフリカ人のシモンがローマ兵から、イエスの十字架を無理に担がせられて、イエスの後からついて行かされたのです。

  この時はまだシモンには分かりませんが、イエスの後から十字架を担がされるこの事件が、彼の人生に決定的な影響を与えました。イエスの後から辿り、その後もイエスの十字架を考える中で彼の人生が深められ変えられて行きます。シモンはやがてローマに移って家庭を持ちますが、イエスと出会ったこの時からイエスは彼と共に歩まれたと言えるでしょう。これが31節までに書かれていたことです。

  そして今日の聖書は、「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた」と語ります。

  2人の犯罪人もゴルゴタに向かいました。だが彼らの歩みはシモンと違い、身から出た錆(さび)とも言うべき、奈落の底に向かう歩みでした。一時はシモンと同じ道にいますが、彼らは絶望と死に向かう一歩一歩です。とは言うものの、イエスはシモンだけでなく彼らとも一緒に歩まれ、彼らを左右にして、彼らの真ん中で十字架に付けられます。そこに救いへの一縷(る)の望みが残されるのです。そのことは39節以下で触れたいと思います。

  いよいよゴルゴタの刑場です。「そこで人々はイエスを十字架につけた。」2千年前、この丘の上で、太く長い釘を打ちつける高い音が遠くまで響き渡ったでしょう。先ず十字架に縛りつけられ、左右の掌と足首に太いボルトのような鉄の釘がハンマーで打ち込まれたのです。骨が砕け、血が飛び散ったでしょう。古代の鉄の釘は荒削りで、今ほど先は尖っていません。処刑に新しい釘は不要です。錆つき曲がった古い釘を手足に無理に打ち込む音が、カーン、カーンと、この日、エルサレムの周辺にこだましたでしょう。これは道を外した者に対する非情なこの世の制裁の象徴でもあるでしょう。

  イエスは、「丘の上の町は隠れることは出来ない」と言われましたが、丘の上の処刑は誰の目にも隠れていません。いわば全世界に向け、全人類に向けて語りかけています。第Ⅰテモテに、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたという言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と明言されていますが、丘の上の十字架は、全人類のすべての人の救いのためのイエスの愛の死を語りかけるものです。ある人はこの事を、「神はキリストにおいて、永遠に罪人と共にあることを決意された」と語っています。

  これが、「人々はイエスを十字架につけた」ということで語られている事です。人々が十字架に付けましたが、イエスこそ罪人を救うために十字架に付かれたのです。そして、神こそ、キリストにおいて永遠に罪人と共にあろうと決意されたと、喜ばしい福音は語っています。

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  他方、イエスを十字架に付けた人々もここに書かれています。先ず、「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。」人々とあるのは当番の兵士たちです。彼らの役得で、イエスの下着と帯、サンダルとターバン、そして体全体を包む大きな布をサイコロを振って分け合ったのです。人の一生の最期の厳粛な時に、そんなことには一向に頓着せず、少しでも得をしたくてサイコロを転がし遊んでいる。

  要するに彼らの志の低さです。志の低さは下っ端の兵士だから起こるのでなく、たとえ都知事でも起こります。

  そして「民衆は立って見つめていた。」彼らは兵士たちを面白半分に黙って見ていたのでしょうか。それとも十字架のイエスを深刻な面持ちで、あるいは嘲笑って見つめていたのでしょうか。中には処刑を見たさに来た者もいたでしょう。いずれにせよ傍観者です。

  次に「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」とあります。議員とは最高議会の議員たち、日本で言えば国会議員です。彼らはイエスの処刑を求刑した者たちです。十字架に付けておきながら、「もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と野次った。 バカにして嘲笑ったのです。

  最高議会議員ですが、彼らも人間として決して高尚とは言えません。やはり志の低さがあります。少し前には彼らは十字架に付けよと激しく訴え、民衆を扇動しました。十字架で磔にしておきながら、ここまで侮辱したのです。人間はここまで堕ちることのお手本でしょう。

  更に兵士たちが、「イエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して 言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ』」と言ったとあります。議員らが侮辱するので、彼らも図に乗って、同じような侮辱を投げつけ、安物の酸っぱいブドウ酒を突きつけて侮辱したのです。

  そしてイエスの頭上には、「これはユダヤ人の王」と書かれた札も掲げてあった。イエスを公然と侮辱し、嘲笑する、イエス断罪の頂点を為す標識です。

  以上ここにあるのは、誰からも嘲られ、軽んじられ、舐められ、何度もなぶり者にされて、肉体も心も傷つけられ、ボロボロにされて、十字架の上に血祭りにされて吊り下げられているキリストです。孤立し、誰も擁護する者がいません。道を外した者に対する最も非情な世の断罪が、罪なきイエスの上に下されたのです。


       (つづく)

                                           2016年7月24日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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