にがよもぎとチェルノブイリ


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                                             詩編23篇1-6節
                                             エレミヤ23章1-6節
                                             マタイ5章13―16節
                                              ヨハネ10章11-15節


                              (2)
  9節以下は、国の終りを迎えて預言者に向けて語られた言葉です。ただここにある預言者は偽預言者のことです。

  先ずエレミヤは、「わたしの心臓はわたしのうちに破れ、骨はすべて力を失った。わたしは酔いどれのように、酒にのまれた男のようになった。それは、主のゆえ、その聖なる言葉のゆえである」と言います。彼は国を憂えるゆえに心臓が破れる程に落胆してしまった。酔い潰れた男のように自分を支える力を失い、立つ力さえ失くしたと語ります。なぜなら、王国の現実は主の聖なるみ言葉と余りにもかけ離れ、御心に全く背いているからで、自分が立つ力さえ失ったのは、「それは、主のゆえ、その聖なる言葉のゆえ」だと申します。

  主の聖なるみ言葉が彼に迫ったのです。それは国の現実と余りにも乖離していて、そのみ言葉に砕かれて私はもはや立つ力もない。酔いどれのようにフラフラになっている。だが皆からも罵られ、嘲られて、フラフラになりながらも、彼は神の言葉を語って行くのです。預言者とは神からみ言葉を預かった者です。だから民の求めに逆らい、自分の意志にも逆らって、神から授かった言葉を語らなければならないのです。神に出会った信仰者の預言者的使命は、そのような過酷さを持ちますが、彼は語り続けます。

  彼は20才前後に預言者として神から召命を受け、ほぼ40年にわたってこの国に対して語って来ました。

  南王国の現実が10節、11節で、「姦淫する者がこの国に満ち、…預言者も祭司も汚れ、神殿の中でさえわたしは彼らの悪を見たと、主は言われる」と言われます。最も聖なる場所である神殿すら悪の巣窟になっている様(さま)です。

  また13節は、サマリア預言者らの「あるまじき行い」を見た。彼らはバアルによって預言する始末だと言います。サマリアは既に滅んだ北王国の首都ですが、敢えて北王国を持ち出して、あるまじき行いを指摘します。バアルは偶像の一つで軍(いくさ)の神です。日本で言えば靖国神社です。それは権力の神であり同時に繁栄の神です。靖国神社も国家繁栄を唱導していますが、バアル信仰ももっと豊かに、もっと豊かにと繁栄を目指し、そのためまことの神から遠ざかり軍備を増強しました。その挙句の果ては他国との力の衝突。その結果アッシリア帝国に潰されたのです。

  現代で考えれば、40年前にローマクラブが近未来の地球資源の有限性に基づき、「成長の限界」を警告したのに、今なお、高度経済成長期のように成長、成長、素晴らしい国ニッポンが更に成長し、世界のトップにならねばならないと呼びかけられています。巨視的に見れば、今はもう繁栄や靖国のような軍(いくさ)の神を祀り上げる時代でなく、もっと成長のペースを落とし、もっと家族の団らんが持て、もっと世界が仲良くすることのために政治家は努力すべきです。富める者と貧しい者とが出来るだけ公平に富を分配することへ向かうのは人類に対する至上命令です。格差社会は逆行です。

  次の14節は、「エルサレム預言者らの間に、おぞましいことを見た。姦淫を行ない、偽りに歩む…」とあり、悪を行なう手を強め、「誰ひとり悪から離れられない」とあります。こちらは南王国の事です。自分では正しい事は何か、何が公正で、何が偽りか、主から憎まれるか分かっている。だが悪から離れられない。頭では分かっているが、行動で裏切っている。

  22章13節以下をご覧下さい。「災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を、正義を行わずに高殿を建て、同胞をただで働かせ、賃金を払わない者は。…(15節)、あなたの父は、質素な生活をし、正義と恵みの業を行ったではないか。そのころ、彼には幸いがあった。彼は貧しい人、乏しい人の訴えを裁き、そのころ、人々は幸いであった。こうすることこそ、わたしを知ることではないか、と主は言われる。」

  公共の福祉が優先されるのでなく、競争に勝ち抜いた一部の者たちが、ご殿のような所に住んで人生を謳歌しているのです。ただ問題は指導者に留まらず、6章13節をご覧下さい。「身分の低い者から高い者に至るまで、皆、利をむさぼっている。」利益、利益と、少しでも得をすること、経済、経済と至る所で「利」を追求しています。それと共に何か大切なものが欠落し、世が転倒してしまっているのです。

  17章9節、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」心の病ではありません。自分勝手な利己主義、自己中心という病気です。主は彼らの心を究め、白日の下に晒されるのです。

  主を信じるとはどういうことか。それは社会に正義と公平が貫かれることだ。だがそうなっていないというのです。頭では分かっている。だが行動になって来ない。

  それゆえ15節、「見よ、わたしは彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。…」この言葉は9章4節にも出て来ます。

  にがよもぎとは、ウクライナ語でチェルノブイリと言います。まさかエレミヤが原発事故を預言したと思いませんが、不吉な何かを暗示しています。自己中心主義がまかり通るゆえに、にがよもぎチェルノブイリを食べさせ、毒の水を飲ませる。今で言えば高レベル放射能の混じった毒の水です。悪を吐き出す者らに、悪の水、毒の水を飲ませる。自業自得が起こると預言するのです。15節は、「エルサレム預言者たちから、汚れが国中に広がったからだ」とあります。

  本来、群れを牧さなければならないのに、神に対するまことの服従がない。現代的に言えば、富める者が益々富み、彼らが更に富めば牽引車になって低所得者の生活水準を引き上げてくれると、人を騙(だま)す言葉が公然と語られるのです。いずれにせよ、弱い者、虐げられた者への労(いたわ)りがないのです。

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  次に、16節以下で、主の言葉とは何か、み旨はどこにあるかが語られます。「万軍の主はこう言われる。お前たちに預言する預言者たちの、言葉を聞いてはならない。」彼らは偽預言者だからです。「彼らはお前たちに空しい望みを抱かせ、主の口の言葉ではなく、自分の心の幻を語る。」自分らが思いついた心の黙示、自分ら仲間同士で都合のいい考えを、まるで主から頂いた言葉であるかのように民衆に語るというのです。実に紛らわしい。

  また、「わたしを侮る者たちに向かって、彼らは常に言う。『平和があなたたちに臨むと、主が語られた』と。また、かたくなな心のままに歩む者に向かって、『災いがあなたたちに来ることはない』と言う。」本当の所は主から言葉を頂いていないのに、まるで頂いたかのように、滔々と語る。偽りです。嘘を語っている。ペテン師です。そこにこの国の問題があるということです。

  その中で、心すべきは20節です。「主の怒りは、思い定められた事を成し遂げるまではやまない。」主は思い定めたことを必ず歴史の中で成し遂げられる。それが主の聖なる意志だと、エレミヤは語るのです。また「終わりの日に、お前たちはこの事をはっきりと悟る」とあります。南王国が滅亡してハタと気付くのです。でも時すでに遅しです。

       (つづく)

                                           2016年7月17日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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