泣くな、私のために


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                                                  泣くな、私のために (下)
                                                  ルカ23章26-31節
        

                              (3)
  さて、民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを作って、イエスに従いました。彼らはガリラヤからついて来た信仰深い婦人たちでなく、エルサレムの民衆や一般の婦人です。その婦人たちの方をイエスは振り向いて、「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。…」と言われました。

  むろんご自分のために泣いてくれる婦人たちに感謝されました。しかし感謝されながら、やがて彼らの身に降りかかる悲しみを思って、「泣くな、私のために」と語り、「泣け、汝ら自身と汝らの子らのために」と言われたのです。苦しみを負いつつ、なお人の身の上を案じられるイエスの愛の姿がここにあります。私には逆立ちしてもないものです。

  イエスは今、十字架を負って父なる神のもとへ行こうとしておられます。イエスは、「私にはみ国という明白な希望がある。私は絶望に向かってでなく、希望の明日に向かって進んでいる。その希望の力が、今のこの苦しみ、十字架を越えて行く力である。だから、泣くな。私のために」とおっしゃるのです。

  むしろ自分と自分の子らのために泣け。自分の十字架を負っても、担いで行ける希望の力をお授け下さいと願って泣きなさいという意味です。それが1つ。もう1つは、やがて起ろうとしているローマ軍によるエルサレムのまったき崩壊のためです。

  「人々が、『子を産めない女、産んだ事のない腹、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」とあります。イエスは第1次ユダヤ戦争によるエルサレム崩壊を予告されたのです。

  恐らく、4年も続いた第1次ユダヤ戦争によるエレサレム崩壊の状況が反映しているでしょう。ルカ福音書は、丁度その戦争が終わった西暦70年から少し経って書かれましたから、都の崩壊で大人も子供も差別なく無残に殺され、子どもらを失って生き延びた母親たちの泣き叫ぶ声がここに反映しています。

  「子を産めない女や産んだ事のない腹、また乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ」とは、愛する子らを失った余りの悲しさに泣き叫ぶ若い母らの姿です。何年もの籠城が続き、食糧が枯渇し、お腹を空かしガリガリに細った我が子や、息を引き取った乳飲み子を抱いた母たちの狂わんばかりの姿がどんなものか、今も戦争地域の写真で私たちはよく知っているのではないでしょうか。こんな酷いことになるなんて、我が子とこんな別れ方をするなんて、産まなかった方がもっと良かった。子どもを持たない人の方がもっと幸せだったという日が来るであろう。イエスはそう言われたということです。

  それにしても、「人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める」とはどういう意味でしょう。「山に向かっては…、丘に向っては…」は、当時民間に流布していた言葉だとも言われます。エレサレム崩壊と無残に死に行った子らの姿を見て、「山よ、我らをひと飲みにするため、我らの上に崩れておくれ。丘よ、我らを覆ってこの悲しみと苦痛をひと思いに殺しておくれ。」こう悲痛な声で叫び求めるだろうというのでしょう。

  第1次ユダヤ戦争がどんなに激しく、過酷な、長く続く激戦であったかは、歴史の本を見れば分かります。まさにエレサレム陥落時の母たちの叫び、阿鼻叫喚とも言うべき人々の叫びです。

  次の「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」は、イエスの生(なま)の言葉でしょうが、これは非常に難解です。「生ま木」、「枯れ木」は何を象徴しているのでしょう。客観的な事は分かりません。しかし生ま木はまだ生きている青い木です。裂けば樹液が出ます。銀杏のような生命力のある木なら、切り倒された生ま木から1年経っても芽が出て育ちます。それに対し、枯れ木はもはや乾燥し切って樹液はありません。

  ある人と話をしていて、その方はご高齢の方でしたが、「自分のような年寄りはもう希望がない」と言っていました。枯れ木というのは生きる希望を失くした人。生ま木というのは、希望を持つ人と考えればどうでしょう。結婚や子育てを始め、これからという若者は希望が沢山あります。若者でも希望がない人もありますが、普通はしたいことも色々と沢山あるでしょう。

  だが子育て中だとか、希望に満ちたこの人たちさえこうされるのなら、枯れ木となり希望を持たない人たちは、一体どうなるのかということです。

  人間として、芸などが枯れたり、人としても歳と共に枯れるのはいいことですよ。いつまでも若々しくでなく、枯れなければならないことがあります。誰と言いませんが、テレビで、80数才の人が付けまつ毛、厚化粧で若々しさを演じていても、首や腕の皺が目に入れば醜悪なお化けです。人は枯れなきゃあならない。だが生きながら枯れ木になっちゃあダメです。

  今年の花の日の前日、家内が外でAさんにお会いしたそうです。Aさんは買い物帰りで、手押し車に大きな紙包みを乗せておられたそうです。「これは、何?」とお聞きすると、「カーネーションよ。明日は母の日でしょ。だからお母さんにプレゼントするの」とおっしゃったそうです。そうでしょ、Aさん?

  でも、Aさんはお母さんなのにと、不思議に思って家内は、「お母さんって?」と聞き返しました。すると、「娘よ。だって家では、お母さんて呼んでるから」と言われたと言って、帰って来ました。

  Aさんはまだ枯れ木ではないです。十分頭も心も働き、ありきたりの考えを打破して、愛を持って人を喜ばそうと新しい事をして行かれる。素晴らしいと思いました。

  「若者は幻を見、老人は夢を見る。」旧約聖書に書かれ、新約聖書に引用される素晴らしい言葉です。老人は未来の子や孫の幸せを思って、世界よ、こうあれかしという夢を捨ててはいけません。参院選の投票でも未来への夢を込めた1票が大事です。夢があると、人として枯れても枯れ木になりません。

  申し上げたいのは、キリストにおいて希望を持ち、希望を抱いて人と共に生きることです。それが大事だと思います。

  信仰を持っても、持たない者と同様に苦しみがあります。しかし信仰という人生の生きる根拠となるものをもって苦しむ事と、人生の根拠を持たずに苦しむのとでは雲泥の差があります。人生の根拠を持つ者でも苦しむなら、根拠を持たない者はどうなるのか。根拠を持たずにただ流され、倒され、苦労するだけの人生を送って、犬死のように、引っこ抜かれた棒杭のようにただ倒れて逝ってしまうのか。神から切り離され、根っこがない。生きているが枯れてしまっている。それでいいのかです。

  しかしイエスは生前、私たちに、たとえ枯れ木であっても、「私を信じる者は、一人も滅びることなく、永遠の命を持つ」と約束されたのではないでしょうか。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」とまでおっしゃったのではないでしょうか。「泣くな、私のために」、「泣け、あなたとあなたの子どもたちのために。」

  私たちは根源的な救いを求めて生きて行きたいと思います。そのためには泣くべき時に泣かなければなりません。そして根源的な救いを求めて泣くなら、私たちはかつては枯れ木のような者であっても、今はイエスによって新しくされ、天に国籍を持ち、希望を与えられて地上を旅する者たちとして生きることが出来るでしょう。


         (完)

                                           2016年7月10日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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