新約はどうして愛の神か



              ブリューゲル「バレルの塔」の背景(上がウイーン、下がオランダにあるもの)
                      
                               ・



                                              バラバの釈放は何故だったか (下)
                                              ルカ23章13-25節


                              (2)
  さてピラトの決定により、バラバは釈放されました。彼は今の今まで暗い独房で死刑を覚悟していたでしょう。そしていつ名前を呼ばれるかとビクついていた。ところが急に名前が呼ばれたのです。いよいよ最期の時かと緊張したでしょう。ところが重い足の鎖、手の鎖を引きずって看守について行くと、鎖をほどかれて釈放され、久しぶりに眩しい明るい陽の中に出たのです。

  しかしバラバは、なぜ政府転覆をはかり、何人も殺した重罪を犯した自分が許されたのか、彼自身も分からなかったでしょう。自分と引き換えにイエスという男が死刑の判決を受けたと聞いても、それがなぜだったのか、どんなに考えても理解できなかったでしょう。実に不条理な事が起こったのです。その後の彼の一生は、「あれは何故だったのか」という問いを解くことに費やされたに相違ありません。

  このどんなに考えても理解できない不条理の釈放の中で、イエスによる私たちの罪の赦し、贖罪が起こったのです。バラバは死を免れ、イエスが処刑されます。私たちが死を免れ、イエスが十字架で磔(はりつけ)になります。現実に暴動と殺人の罪を犯した人間も、イエスと引き換えに罪を赦され、無罪放免、釈放されたこと。それと同じく、いかなる罪を持つ者も、重い罪でも軽い罪でも、人に言えない罪でも明らかな罪でも、イエスにおいて、イエスと引き換えに全く罪赦される事をこの事件は言おうとしています。バラバの身にただ一回限り起こった歴史的な釈放は、私たちの身にただ一回限り決定的に起こり、罪の裁きからの完全な解放を、全面的な赦しを与えられたのです。

  言葉を変えて言えば、私の救いの背後にはイエスの十字架と処刑があるということです。祭司長や議員たちと彼らに扇動された民衆の意志に基づく処刑がなされるが、イエスの処刑によって神の赦しが私たちに及び、人類すべてに及ぶ神のご計画が成し遂げられたのです。

  新約聖書は赦しの神である。愛の神である。それに対して旧約の神は裁きの神、怒る神である。旧約と新約の神は、別の神でないかと尋ねられることがあります。しかし違います。同じ神です。

  なぜ違う神に見えるのでしょう。そこにキリストの贖罪があります。新約の神も裁く神、罪を見過ごさない、聖なる、義なる神です。罪を犯す者に厳罰を与える神、決して見逃さず、許さない神です。

  ですから罪ある私たちは厳罰を受けて滅びるしかないのです。罪の報酬は死であるとローマ書にある通りです。しかし滅びるべき罪人である私たちへの裁きが、不条理にもイエスの上に降り、イエスが十字架の厳罰を引き換えに受けられた。そして私たちは罪赦されたのです。私たちが新約の神は愛だ、愛だけだと考えているのは、背後に代わりに裁かれたもうたキリストがおられるからです。

  この裁かれた給うたお方を知らずに、愛の神だけを知って呑気(のんき)でいるのは、神の愛の傷みも深さもまだ十分知らないことです。それがいかに深く、限りない深く高貴な愛であるかは、十字架で裁かれたお方において知るのです。

  バラバが釈放されたから私たちに希望が生まれたのです。「バラバの釈放は何故だったのか。」変な題でしたが、今日の個所は私たちの罪の赦しと人類への希望の福音が語られているのです。

  話しは変わりますが、画家のブリューゲルが約450年前に描いた「バベルの塔」という有名な作品が、来年東京と大阪に来るそうです。同じ名前の彼の作品はウイーンとオランダにあって少しずつ構図が違い、キャンバスの大きさも違いますが、私は5年前にウイーンの素晴らしい大きな作品を見ました。

  創世記のバベルの塔の物語もあの作品も、もっと高く、もっと豊かに、もっと権力を持ち、もっともっとと豊かさを求め、神のようになろうとする人間への痛烈な批判と言っていいでしょう。

  ウイーンの絵で印象的なのは、バベルの塔が雲を突き抜け雲の上に顔を出すまで築き上げていますが、築いている最中にもう2か所で大きな崩壊が始まっている事です。威風堂々として描かれた王は人々を奴隷のように働かせ、部下の案内で視察しています。格差がどんどん強まり不満が現われますから、鞭を行使して働かせなければならないのです。絵にはゆったりした雰囲気はなく、人々はどこか緊張して働いています。

  それに対してオランダの方の絵は後で描かれましたが、遂に塔が完成まじかを迎えています。だがよく見ると、ウイーンの絵では背景に見えた家々は一つ一つ立派で大きな町を形成していますが、完成まじかのオランダの絵では何と背景の町の家々が廃墟同様に崩れ果てているのです。雲の上まで聳(そび)え立った塔は見事に完成しようとしています。だが一般住民の住居はすっかりダメになってしまったのです。ブリューゲルは深淵なメッセージをこの2つの絵によって描きました。これは2つの絵を見比べて分かることです。

  果たして来年、こんなことまで解説されるかどうか知りませんが、来年この絵の前に立つ私たちはどんな思いで見るでしょう。人類への警告として見るでしょうが、どれだけ自分への警告として内省するでしょう。

  バラバは救われました。今ある彼の救いと幸せは自分の力ではないのです。不条理に思えますが、私たちの背後に十字架のキリストがおられることを覚えて行きたいと思います。命の根源であられる神との関係なしに、いかに高い塔を築いても、いかに多くのものを手に入れても、足元から崩れて行くのでないでしょうか。あるいは天高く築き終わった時は、すっかり一般人は疲弊(ひへい)してしまっている事になりかねません。

  それと共に、ピラトの歴史的判決に拘わらず、その不当な判決をも用いて、神はご自分の愛の深みを、前にも後にもないその計り知れない尊い十字架において人類に現わされたことを覚えたいと思います。

          (完)

                                           2016年7月3日


                                           板橋大山教会 上垣 勝




  ホームページは、 http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/

  教会への道順は http://www.geocities.jp/itabashioyama_ch/img/ItabashiOyamaChurchMap.gif



                               ・