ヘロデが見た洗礼者ヨハネとイエス


                         アンリ・ルソー(2)(ルーブルにて)
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                                                   イエスを訴える (中)
                                                   ルカ23章1-12節
 

                              (2)
  一方、ヘロデは8節に、「イエスを見ると非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。」元のギリシャ語も甚だ喜ぶという言葉ですが、尋常でない喜びです。

  理由は、イエスという人物は、自分がかつて首をはねたヨハネが再び甦った男でないかと恐れていたからです。彼は他にも何人も血祭りに上げて来た男です。潜在意識として恐怖や罪意識があったのかも知れません。それで、殺しても、殺しても、また甦って来る。地獄の底からでも舞い戻って来る、得体の知れない恐ろしい人物かも知れぬと思って、この目で確かめたいと考え、非常に喜んだのです。その上、珍しい不思議な徴を行なってくれるかも知れないと期待したようで、まるで珍しい動物か見世物でも見るかのような態度です。

  ところが会って「色々と尋問」するが、イエスはウンともスンとも、一言もしゃべらないのです。元の言葉は、次々と多くの言葉を持って尋ねること、返答を迫って質問することです。だがイエスは一言も言わず、黙ったままです。黙秘というより、この世の王の質問に何ら興味を示されないのです。興奮気味に多くの質問をするこの世の王とのコントラストが印象的です。そのうちさすがのヘロデも興味を失ってしまった。

  一方、同席していた祭司長らは、ここぞとばかりまくしたて、激しい口調で告発しました。

  興ざめしたヘロデは、「自分の兵士たちと一緒にイエスを嘲り、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。」嘲りとあるのは、字義通り嘲笑的に扱う事です。無視したり、軽視したり、蔑むことです。侮辱はバカにすること。派手な衣とあるのは、キラキラする派手な服です。薄汚れた囚人服とは正反対の、お祭りや仮装に出るような服で、侮辱の極みです。彼らはその服を着せてゲラゲラ笑って送り返したのでしょう。

  バプテスマのヨハネは勇敢で何者も恐れず、ヘロデ王の心目がけて鋭く斬り込んで来る人物でした。だが目の前の男は静かに沈黙したまま、一言もしゃべらない。ヘロデの目には、イエスヨハネより劣る者と映ったでしょう。また自分が殺したヨハネとは別人だと分かり、風貌も違い、良心の呪縛から解かれてホッとしたのです。

  それで、古武士のように何者も恐れず、敢然と罪を指弾するヨハネは嘲笑できなかったが、イエスはバカに出来たのです。彼は自分の兵士らと一緒になって、イエスをからかい、さんざん侮辱を加え、意図的に人目に立つ服を着せてピラトのもとに送り返したのです。

  そして、「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」仲が良くなったとあるのは、和解した、親友になったという言葉です。

  これは大変考えさせられます。親友とは言え、時に、世の親友は誰かを排除することで生まれたり、誰かと対立することにおいて意気投合して生まれる場合があります。そういう親友は何かがあると、互いに蔑んだり、排除したりしかねません。

  「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。」今、申しましたが、これは和解とか、友人になるという言葉です。

  彼らの和解は罪のなせる業です。罪の業は信仰の為せる業と違い、実に自分勝手です。それで急に手のひらを返したような事をします。神など仰ぎません。自分が、自分がと自己中心ですから、自分の気持ちや気分に忠実でありさえすればいいのです。

  詩編116篇に「わたしは信じる。『激しい苦しみに襲われている』と言うときも。不安がつのり、人は必ず欺くと思うときも」とあります。この信仰者は激しい苦しみや数々の不安に襲われたのでしょう。人は必ず欺くという強迫観念さえ起こったのでしょう。

  そういう中で、「私は信じる」、断固たる神への信頼を持つ。それが信仰です。激しい苦しみに襲われる時も、不安が募り人に欺かれそうになる時にも、「私は断固として神を信じる」のです。私たちの信仰は、ここから退かないとの決断でした。

  だが、ヘロデやピラト、彼らは神を神とせず、神の言葉に拘束されません。しかしキリスト者は神の言葉に拘束されます。それが神の下で生きるという事であり、神の言葉に導かれることです。だがキリスト者にならない限り、自分勝手に振舞えますから、信仰を持とうとしないのです。もし持てば好き勝手は出来なくなるからです。イエスは信じるが、もう少し好き勝手をしたいからキリスト者にならないと言う人々もあります。だがやがて何かのきっかけで信仰に入るなら、そこから人としての成熟が始まり伸びて行きます。

  いずれにせよピラトとヘロデの和解は、キリストによる和解とは雲泥の差があります。彼らは共通の酒の肴が出来て和解しただけです。そういうものでも長続きする場合がありますが、大抵、アバよと言って分解するものです。

          (つづく)

                                           2016年6月26日


                                           板橋大山教会 上垣 勝




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