安らかにここに住む


                        巨峰の摘果を楽しみました       (右端クリックで拡大)
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                                                  安らかにここに住む (下)
                                                  詩編4篇1-9節


                              (2)
  彼は、「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ」と呼びかけます。これは、愛や赦し、平和の神などを屁(へ)とも思わない彼らへの呼びかけです。

  「慈しみに生きる人」とあるのは、心から神を慕い愛する人であり、神の愛に拠り頼む人のことです。ところがそのような神を慕う者も神を慕わず神を嘲(あざけ)る者も、地上では何の差もないように見えます。むしろ愛など唱えず、力と権力をひたすら求める者こそ更に出世し、一番になることが出来ると豪語する者らの声が大きく、実際にそのように見えます。

  ちなみに次の第5篇10節に「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵(ふち)」とあります。彼らは自分が達成した成功物語りを根拠にして、自信満々、舌は滑らかに巧妙に語り、語れば語るほど思い上がり、神への冒涜を増し加えるのです。

  だが、天の神は主の慈しみに生きる者を見分け、籾(もみ)と籾殻を見分けられるのです。羊飼いが羊の声を聞き分けるように、神を慕う者らの呼び声を聞き分けて下さるのです。ダビデはここで、神の峻厳(しゅんげん)さを知れ、その正しい愛と裁きに目を止めよと呼びかけているのでしょう。そう言いたいのです。

  また5節では、「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ。ふさわしい献げ物をささげて、主に依り頼め」と呼びかけます。

  詩編46篇に「汝ら静まりて、我の神たるを知れ」とあります。神の前でおののき畏(おそ)れ、謙遜になって、自分がどんなに高ぶっているか、傲慢不遜に陥っているか、心の内を調べ、神の前に沈黙すべきです。

  だが彼らはその知識と巧妙な弁舌によって、巧みに神について論じようとします。また信仰を持たないに拘わらず、聖書について低いレベルであれこれ論じ、そんな本が店頭に並びます。しかし神の前の信仰者の態度は、神の前に沈黙してそのご支配に服し、神を尊んで賛美の捧げものをする。献げもので、主をほめたたえることだというのです。

  確かに主に献げものをしながら、内心ひそかに神を冷笑することは不可能です。献げものの中で、私たちは主に対する真実な思いを表わすのです。それは主を信頼し、主により頼むことの徴です。

  ダビデは更に語ります。「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。」そのままに解釈すれば、神の前で正しく生きた所で、誰が恵みを示すのか。そんな者があろうかと多くの人は問うという意味です。世が覆(くつがえ)っているのです。正邪が逆転している。その転倒した姿を見抜く人が少なくなっているのです。

  新聞を見ていましたら、今、新聞やテレビなどが政権への批判を恐れて真実を語ることを控えているとありました。多くのジャーナリストが自分の地位や立場が干されるのを恐れて、遠慮して本当のことを言わない。長いものに巻かれている。そこに今日の日本社会の危険が潜みます。政権を傲慢にさせているのは市民に責任があります。先週、ヒトラーに抵抗した人々の一人をご紹介しましたが、その本(「ヒットラーに抵抗した人々」對馬達雄著)の中で、「市民的な勇気」(D.ボンヘッファー)、市民の勇気、異議を唱える勇気が必要だと書いていました。何にでも異議を言う態度でなく、市民的なレベルにおいて異議を唱える勇気です。歴史を後戻りさせないために、今の日本において特にそれが重要です。

  いずれにせよ、正邪が逆になり、世が転倒して何が正しいかが分からなくならないためにダビデは語るのです。そして、何よりも彼自身が正邪が逆転しないために、「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と祈り求めます。彼の喜びと誇りは、主がみ顔を向けて下さることであり、主のみ顔の光が注がれることです。いついかなる時にも、主のみ顔の光が注がれていれば安心であり、主が目を向けていて下さるなら心安らかです。それがありさえすれば、力一杯、自分の能力を出して生きることが出来るのです。

  彼が信じる神は、バアルのような偶像ではありません。力の神ではありません。こちらの犠牲に応じて幸福を与えてくれる神、犠牲を捧げれば捧げる程、多くのものを与えると約束する神は、犠牲を強要する神でしょう。また律法を行なって恵みを獲得する神でもありません。彼が願い求めるのは、ただみ顔の光を注いで彼を受け入れ、彼と共にいて下さる神。彼を明らかに照らして下さる神だけです。それで十分なのです。神のみ顔の光に照らされる事が、いかなる他の喜びよりも大きいのです。

  ですから彼は8節で、「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください」と願います。皆さんの中に農家ご出身の方が何人かいらっしゃいます。その方々はご経験がおありかも知れません。

  籠に入れて畑にまいた小さな種が、太陽の光と雨を与えられていつの間にか大きく育ち、収穫の時には驚くほど多くのものになっています。今日は礼拝後のお茶の会でのインタビューの後、希望者だけでブドウの摘果をほんの20分程しようとしています。その時に、ブドウ棚から緑色の大きな房が幾つもぶら下がっているのを目にして驚く方があると思います。私自身本当に驚いています。なぜなら、植わっている土地は大地とは到底言えない痩せた貧弱な狭い場所だからで、こんな所からこれほど多くのものが育ったなんて信じられないからです。私は目を疑っています。9月の取り入れの時は、皆さんと大喜びするでしょう。

  ダビデは、あなたのみ顔の光を私にお向け下さることによって、麦やブドウの収穫、「それにもまさる喜びを、私の心にお与えください」と語ります。彼がどれほど神を慕い、神を愛し、先程言ったようにプラグをコンセントに入れて神に生きているかが知れる言葉です。

  そして最後に、「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださるのです」と語ります。彼には、地上のいかなる喜びも楽しみも幸福も、どんな収穫物も金銭も、主なる神が下さる喜びにまさる喜びはありません。「あなただけが」とあります。この「だけ」によって、彼の心は満ち足り、喜びあふれるのです。

  この「だけ」がある時、艱難や試練も、窮地に落とされることや背信も、たとえ名誉を辱められても、勇気を得てそれに耐え、それに立ち向かい、それをやがて克服して行くでしょう。「一日の苦労はその日一日だけで十分である。」安らかにここに住む時、心に平和が与えられ、その日の苦労がみな拭われることでしょう。むろん、すっかり克服される時がいつ来るかは分かりません。時を支配なさるのはただ主なる神だけだからです。いかなる人間も時を支配できません。

  だが神を信じる者に与えられるのは、「主よ、あなただけが、確かに、わたしをここに住まわせてくださる」ということです。このような「ここ」を授けられ、「ここ」に落ち着いて安らかに住み、神の栄光を少しでも表わして行きたいと思います。

  ダビデは夕辺に床に就こうとしてこの祈りを祈りました。心を静め、この世のあらゆる地位や名誉など身にまとったものを一旦脱いで、神の前に幼子のように出ています。一切は神から来ました。心を静める時、手にしたものは、自分の努力によると考えません。神が自分に目を注ぎ、自分に送って下さった様々な人や環境。偶然のように見えるが、じつは神に備えられたものの中で今の自分があるからです。彼は謙虚に神の前に留まります。謙虚そして謙虚、それからまた謙虚、この謙虚こそ人としての成熟です。神の前で生きる信仰者はそのような神の前の謙虚で、安らぎを持って生きています。

       (完)

                                                   2016年6月12日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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