オバマ広島演説とイエスの革命


                            運動会の片隅で         (右端クリックで拡大
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                                                  成功者たちへの勧告 (下)
                                                  マタイ20章20-28節


                              (3)
  世界は人間が最終的に治めているのではありません。人間が治め切れるものでもありません。主が世界を治めておられます。人はいずれ死んでいきます。権力者がいかに絶対性を帯びても、はかなく一時的です。

  イエスはこの世的な権力や権威を求めず、「平和をつくり出す人たちは幸いだ」と言われそのように生きられました。、「平和を求めてこれを追え」と聖書にありますが、復活のイエスは弟子たちとこの世に「あなた方に平和があるように」と告げられました。イエスは平和の主であります。

  イエスは世界に平和が来るように働き、祈り、十字架に付けられて復活されました。死から甦られた復活の主の第一声が、「平和があるように」であったのは極めて象徴的です。イエスの最終の目的は神の国ですが、それは争いでなく平和であり、悲しみでなく喜びであり、冷たさでなく愛であり共に生きることです。イエスはそのような未来を築くために、そういう道を人類が選択するようになるために来られたと言って過言ではありません。

  先日、オバマさんが広島を訪問し、広島演説を行ないました。因みに、8年前に大統領になった時、私たちはオバマさんに英文の手紙を書いて届けました。教会だけでなく知人たちにも呼び掛けて参加してもらい、ぜひ広島訪問をして欲しいと願いを届けました。覚えておられますか。今回の広島訪問はその結果だったのです。笑っていらっしゃる。むろん私たちの手紙だけではないでしょうが、その一つの小さなきっかけになったと思います。大海の一滴として用いられたのです。

  全文をお読みになったでしょうか。私は丁寧に英文と翻訳で何度か読みました。オバマさんは先ず、広島の原爆投下について、「死が天から降って来た。人類が遂に自分を殺す手段を手にした」と表現しました。また広島の日本人被爆の死者だけでなく、韓国・朝鮮人被爆者や、捕虜になって被爆したアメリカ兵たちの死者に触れ、「彼らの魂は、我々に自分の心の内を凝視するよう求めている。我々は何者であり、何者にならんとしているのかをよく熟考するように願っている」と語りました。

  また原爆を頂点とする数百万年に渡る人類の争いの歴史、人類最初の殺人から今に至る私たちの先祖たちが犯して来た歴史に原爆が目を向けさせ、あらゆる大陸で人類の文明は戦争で溢れて来たこと。飢えに駆られ、富への渇望に駆られ、熱狂的な国家主義や宗教、そして次々と帝国が勃興しては滅亡し、何度も何度も支配と被支配が繰り返されて来たこと。そして遂に広島において世界戦争が頂点に達したと語り、その戦争は文明国であり富める国々の戦争であったこと。それらの国々が文明や文化の素晴らしい花を開かせた国々であったし、思想も高度に発展し、正義も調和も真理も高度であったこと。

  だが70年前の戦争はその同じ地盤から起こり、自分らは他国より優れ、優秀であり、他を支配したいという、かつて原始的な部族間で紛争が起こったのと同じ原理や本能から、文明により飛躍的に破壊力を増殖させる中で戦争が起こったと述べました。

  そこでオバマさんは、科学技術が革命的に進歩する中、人間社会にモラルの革命が起こらなければ人類は破滅するだろうと語り、私たちは未来をどう選択するか、広島と長崎が「核戦争の夜明け」でなく、人類が「モラルに目覚める始まり」にならねばならない。そういうモラルを持って生きる未来を人類は選択しなければならないと語りました。私流に纏めましたが、要点を紹介するにも長くなりました。

  イエス様は、オバマさんが語ろうとしたその根本のモラルの革命を語られたと言っていいでしょう。文化の成功者も芸術の成功者も、科学の成功者もスポーツの成功者も、経済、商業の成功者も、政治の成功者も、その他、様々な分野の成功者や上に立とうとする者は、これまでの生き方を180度変え、仕える者になり、皆の僕になることによってその成功が本物になるということです。世界に平和を作ろうと平和を追い求める姿勢によって、地上に平和が実現されて行く。成功者たちがそうすることが彼らの人生の真の自己実現となるということです。

  人類がモラルに目覚めるということは、皆の僕になり、仕える者になるということです。そういう生き方によってその人の業績が真に輝き、自分が主になるのでなくただ奉仕する人間であろうとする時に、人間に聖性が生まれるということでしょう。先週の岩本さんの話しに繋(つな)げればそうなります。奉仕の中にこそ、本当の意味での豊かな優れた成功が存在し、真に上に立つ者の輝きが達成するということです。

  イエスは、そういう革命が人類に起こるために、2千年前に、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」のです。

  これは成功者だけに語られているのではありません。家庭の中や身近な場所で、私たちが上に立とうとするのでなく仕える者になり、権力を振るうのでなく、身近な所で率先して人に仕え、愛する者になることが、私たちの中に聖性が生みれることになるということ、この世界に聖性が生まれるということでしょう。それが万民に、そしてイエスの弟子である私たちに先ず語られているのです。

  戦時中のドイツには、ヒトラーに抵抗した普通の市井の人たちがいました。日本と似た隣組組織がドイツにあり、監視網が敷かれた厳しい警戒の目がある中で、ユダヤ人を逃がすネットワークやヒットラーを倒す地下組織が幾つもあったそうで、最近の研究で徐々に分かりつつあるようです。日本の将校や市井の人々の間に、大日本帝国を倒すネットワークは恐らく皆無だったのと好対照をなしています。

  驚いたことは、ベルリンのテーゲル刑務所という恐るべき刑務所付きの牧師になって、何人ものユダヤ人を救出したペルヒャウという人がいたようです。彼は夫人と共に、支援者の農地で採れた産物などを地下倉庫に蓄えて潜伏ユダヤ人に提供し、驚いたことに刑務所の牧師館に宿泊させたり、執務室の地下に匿ってもいます。妻も一度も反対せず政治的に迫害された人や逃亡した受刑者を受け入れたのです。私はナチ政権下のその事実を知って圧倒されました。

  そこにあるのは、キリストが身を献げるために来られた。だからキリストにある小さな自分も苦しむ人たちの為に、身を献げたいという思いです。仕える者、僕になりたいという切なる思いだったと思います。

  私たちの人生も信仰も、手抜きをすればドンドン雑になります。だから一生懸命手を抜かずに生きる。「一日の苦労はその日一日だけで十分である。明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう。」そういう思いで生きたいと思います。

  私たちの毛細血管は細胞の先々まで血を送り届けてくれています。自分では自覚しないのに、彼らは懸命に私たちに仕え、働いてくれているのです。毛細血管が黙って一生懸命に働いてくれているのに、本体の自分が手を抜いていたんじゃあ、毛細血管にすまない気がします。

  無論手を抜かなければならない時があり、人の手に委ねなければならない時もあります。その時はその時です。その時は心から感謝を述べて、感謝の手を抜かずに委ねたいと思います。それが、仕えること、僕になることでもあるのではないでしょうか。それは私自身のモラルの革命であり、生き方の革命であります。

        (完)

                                           2016年6月5日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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