成功以上の大きな視点を持つ


                            今年のぶどう棚         (右端クリックで拡大)
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                                                  成功者たちへの勧告 (上)
                                                  マタイ20章20-28節


                              (1)
  先程の26節、27節に、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」とありました。偉くなりたい者、一番上になりたい者、これを「世の成功を願う者」と言い換えてもいいでしょう。今日は彼らへの勧告です。しかしこれは私たちへの勧告でもあります。

  ことの次第は今ここにありましたように、イエスの12弟子にはゼベダイの2人の息子、ヤコブヨハネがいましたが、彼らの母が2人を連れてイエスのところに来て、地面にひれ伏して願ったのです。彼らは一種のマザコンだったのかも知れません。あるいは息子らの願いを耳にして居ても立ってもおれず、世知たけた母親が図々しくも2人を連れて頼みに来たのでしょう。いずれにせよ、母親は地面に頭をすりつけて真剣に頼んだようです。

  彼女は、「何が望みか」と聞かれて、「王座にお着きになるとき、息子たちが、1人はあなたの右に、もう1人は左に座れると約束してください」と願いました。随分率直な人です。

  でも考えて見れば実に醜い姿です。彼らはこの醜い姿によって後世に地上に名を残しました。だが聖書は単にこの親子の醜い姿を書き留めているのではありません。「迷わぬ者に悟りなし」です。この時イエス咎められ、この失敗が彼ら兄弟を成長させ、この母も作り変えられて行ったのです。

  27章に、やがて母はマグダラのマリアたちと一緒にイエスを真剣に慕う婦人になり、十字架の近くまで寄り添う人になっています。一度の恥ずかしい失敗が、この婦人を純粋な生き方へと奮発させたのかも知れません。私たちもそうあってよいのです。失敗を恐れていては何も起きません。

  いずれにしろイエスは彼らに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われ、イエスが飲む杯とは何か、またイエスの右と左に誰が座るかは、神が定められた人々に許されていることを話されました。

  ところがこの話を耳にした他の10人の弟子たちが、「この2人の兄弟のことで腹を立てた。」 非常に憤慨したのです。顔を真っ赤にして怒り出した。男性のライバル意識は昔も今も変わらず、人により差があるとはいえ、その本性の部分を占めているのかも知れません。彼らは2人に出し抜かれたと思い、猛然とライバル意識を燃やして地団太を踏んだのです。その結果分かったことは、結局彼らも2人と同じ次元で生きていたという事です。そうでなければ憤慨しません。

  従ってイエスは物分かりのいい人間や紳士・淑女を弟子にしたのではありません。実に嘆かわしいほど不出来な弟子たちを抱えていたのです。イスカリオテのユダだけでなく、この弟子も、あの弟子も、みな何らかの問題を抱えていた。不完全であった。

  その彼らがイエスに従う中で作り変えられて行きます。いや、実際には十字架までは殆ど作り変えられていません。だが十字架のイエスによる罪の贖いの意味を、今日の所にある「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という意味を、復活の光の下で深い所から示され、自分の罪と愚かさと醜さに気付かされ、やがて変えられて行きます。

  すぐには変わりません。だが、不出来な弟子たちでさえやがて変えられて行きました。日陰から光の中に出る者は光を纏(まと)います。ですから光の中を歩むことが大事です。イエスに真に変えられたいと願う者で変えられない者はないのです。自分に絶望しない限り、必ず新しく作り変えられます。諦めない限り求める者は必ず与えられるのです。

                              (2)
  さて今日の本題に入りますが、イエスは、10人の弟子たちが2人に腹を立てたのを知って、彼らを呼び集めて25節以下を語られました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」これが今日の中心です。

  異邦人の間で支配者が民を「支配し」とあるのは、威張って支配すること、権力を振り回すこと、自分は主人だと偉ぶって殿様顔をすることです。また偉い人たちが権力を振るっているとは、威圧的に権威を振るうこと、態度や言葉の端々で権威ぶることです。

  支配者たちとあるのは、最初に申しましたように人生の成功者です。「一番上になりたい者」とあるのは、地位や重要性や順位において他を出しぬいて一番であり、頭でありたい望む者を指します。支配者と言うと政治的支配者をイメージしがちですが、それだけではありません。現代風に翻訳すれば、政治だけでなく文化的な成功者、科学の分野の成功者、芸術方面の成功者、芸術と言っても音楽もあれば芝居もダンスも映画も美術も建築も造園も、その他いろいろなジャンルがあり、またそれぞれ更に細かい分野の成功者がいます。またスポーツの成功者、スポーツでも野球やサッカー、水泳、ゴルフ、マラソン、卓球、テニスなど色々ありますがそれぞれの成功者たちです。むろん経済、商業の成功者や支配者を含みます。そういう一番を勝ち取って威張っている者たちへの勧告。あるいは、そういう成功者になろうと頑張っている者たちへの勧告と言ってもいいでしょう。

  イエスは成功を目指すこと自体を否定しておられません。だが成功した末に上に立って支配し、権力を振るうこの世の支配者らを引き合いに出して、「あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と勧告されたのです。世の支配者が最後に目指すものは支配欲です。すべてを思うままに従わせたい。動かしたいという野望です。

  なぜそうなるのか、そこには同時に人への恐れがあるからかも知れません。人を信用できないからかも知れません。単に出世欲であり野心かも知れません。神のように君臨して絶対的服従を求める者もあります。

  だがあなた方が上に立ち、成功者であろうとする時には、彼らのようであってはならない。この「そうであってはならない」という言葉は、全く正反対であれという意味です。だから「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と勧告されたのです。言葉を変えて言えば、上に立とうとする者、成功を目指す者はもっと大きな視点を持ちなさいという勧告だと取ってもいいでしょう。

  この世界は生存競争です。だがもっと大きな視点です。イエスはその根拠を、ご自分のこの世に来られた目的から説き起こしておられます。それが、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」という言葉です。

        (つづく)
                                           2016年6月5日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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