なんだか神が匂うんです


   次の礼拝後、みんなで巨峰の摘果をするんです。大山教会には色んな楽しみがあります。(写真は去年)

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                                              第1コリント10章13節


                              (3)
  キリストは死に勝利して、復活されました。復活こそ最高の逃れの道、いや、勝利の道です。

  第2コリント4章に、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させてくださる」とあります。復活という勝利の道があるからこそ、それが逃れの道にも、希望のしるしにもなり、試練に耐える力が与えられるのです。

  絶望して投げ出してしまわぬ限り出口はあります。その出口はキリストとの出会いの入り口です。十字架の主との出会いの入り口であり、勝利者キリストの勝利に与る入り口になります。私たちは試練の中で神の真実に出会う道が備えられているのです。

  ある人はこう書いています。「イエスの復活を信じることができない人も、心配いりません。そういう人でも、神に向かって、『弱い私の信仰に目を向けずに、あなたの教会が抱いている信仰の方に目を留めてください。初代から今日に至るキリスト者たちの強い信仰にです。私は弱い信仰者ですが、彼らの比類のない信仰によって私は支えられているからです。私は小さいですが、2千年にわたる逞しいキリスト者の信仰に私は信頼しています。」そう、神に語っていいと彼は言うのです。

  私たちは世界の教会の中で存在し、2千年の教会の歴史の中で支えられて、雲のような無数の信仰の証人の群れと一緒にいることを感謝したいと思います。

  神は、私たちが子どものような小さい存在であるのをご存知です。ですから負うことのできない重荷を負わせられません。どうして母親が幼児に負い得ない重い荷物を持たせるでしょうか。信仰は複雑で難解な真理ではありません。単純にみ言葉に信頼して生きることですから、学問を積んだ人しか深いところは分からないというものではありません。

  万人に可能なものであり、キリスト教信仰の中心は神と実際に活きて交わっているという現実ですから、これ以上にシンプルなものはありません。子どもでも可能です。

  とはいえ、現実の私たちの心には信仰と不信仰が入り混じっています。マルコ9章で、1人の父親がイエスに、「信じます。信仰のない私をお助けください」と叫びました。「我信ず。信なき我を助け給え。」誤魔化さなければこれが私たちの信仰の素顔ではないでしょうか。

  以前、細井順という人が新聞で紹介されていました。ホスピスの医師です。医者ですが、ご自身腎臓癌になり、「死を恐れないで生きる」という本を書かれました。それが静かに版を重ねているそうです。細井さんはキリスト者ですが、「神を信じているかと問われると、ちょっと分からへん。でも、神の存在が何だか匂うんです」とおっしゃると書かれていました。

  「なんだか神が匂う」なんて、何て曖昧(あいまい)な信仰だと見下げる人がいるかも知れません。だがこれが普通の私たちの信仰に近いのでないでしょうか。だが、「我信ず。信なき我を助け給え。」イエスは、彼の信仰を受け入れられたのです。イエスはそういう方です。信なき我の弱い心を神学者たちよりよく知っておられます。

  私たちは、「私は神を愛しています。キリストを愛しています」と断言できない時だってあります。ありませんか?それでも恐れなくていいでしょう。第1ヨハネ4章は、最も重要な事柄は、「私が神を愛したという点にはない。神が私を愛してくださった」という点にあると断言しているからです。余り背伸びしてはいけません。

  私たちの救いは一筋に神とキリストがして下さったことに懸かっています。人類は長年にわたって、こちらの岸から、向こう岸に橋を掛けようとして来ました。それが世界史です。経済によって、科学技術によって、政治や宗教によって、できれば世界が天国の様な所にしたいと、この世と天国の架橋を試行錯誤して来たと言っていいでしょう。だが全ての橋は落ちてしまったのです。どんな天才の素晴らしい橋も、宗教家の橋も橋も結局はダメでした。

  だが向こう側から神が橋をお掛け下さった。そして掛けられたこの橋は決して落ちないのです。それが神が御子を送って掛けて下さった橋です。向こう側に渡る橋は、人間の真面目な真剣さ、努力、才能、真実、私たちの信仰の度合いにも懸かっていないのです。自分の信仰深さでは、誰も救われないのです。

  だが、「信なき我を助けたまえ」と語る私たちに、向こう側から橋が掛けられたのです。

  キリストは私たちを苦しめようとされません。耐えられない試練を与えられません。キリストは例外なく全ての人を愛されます。キリスト者だけを愛されるのではありません。復活のキリストは、私たち一人ひとりに、「私はここにいる。私は、決してあなたを捨てない。決して」と言われるのです。まだキリストを知らない人にもそう言われます。

  コンコンと湧くキリストの愛の泉、その尽きない愛の源泉に与る限り、人として耐えられない試練は決してないでしょう。また、試練と共にそれに耐えられるように逃れる道も備えて下さるのです。試練の中でも前進するのです。

         (完)


                             16年5月25日(水) 平日礼拝にて
                             (08年4月を改訂 )



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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