私の慰めの秘密


                       マチス(1)・ルーブル博物館
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                                                    わが慰めの秘密 (下)
                                                    イザヤ55章1-9節


                              (3)
  先程申しました、神は「インパサブルimpassible」であるという事は、神が人間の考えや行為をいかに遥かに超えているかという事です。私たちが何を行なっても、それで神が激怒して私たちを全く愛さいようになる原因にならないと、彼らは言おうとしたのです。「神は善人の上にも、悪人の上にも太陽を上らせ雨を降らせられる」とイエスが言われたことも、それに関係しています。

  だが私たち人間は、これも申しましたが、他の人の態度、返事の仕方にも反応して、リアクションを起こします。違います?誰かが私たちの進路を阻むと、思うように行かないと、烈火のごとく怒り出したり、そんな人いますよね。イヤ自分がそうだったりします。いちゃもんをつけられると、持っていた善い意志も萎えてしまう事も起こります。だが神はご自身がそうであるように、いつも変わらぬ方です。神は常に愛し続けられ、人が無関心や拒否で応じても愛し続けられます。しかも愛に拘束されているのでなく、進んで自由に愛されるのです。

  ここに私たちの慰めの秘密があります。神の私たちに対する真実は、ご自身に対する誠実に源を持ちます。それは言わば超然とした依怙贔屓のない真実です。ここに、全身を掛けて喰らいつける確かな岩があります。全身を掛けても切れない頼みの綱です。

  世に何も確実なものが見出せず、自分にも頼れなくなっても、ここには私たちを喜び迎えて下さる方がいます。放蕩息子の物語がルカ福音書15章にありますが、放蕩(ほうとう)息子は父親が死ぬ前に分けてもらった莫大な財産をすっかり放蕩で喰い潰し、父親に合わせる顔がないのに家に戻って来ました。老いた父はだが、その姿を遠くから認めて走り寄ったのです。息子の愚かさにも拘らず、父の態度は変わらなかった。父が見ているのは、「死んでいたのに生き返った」、愛する息子です。ここに、私たち人間がいかに人の道から外れ、迷い出ても、神は私たちを愛する息子として迎えて下さる姿があります。そんなことがあり得る筈がない。だが神はインパサブルなのです。

  放蕩息子は父の腕に抱かれ、「すべて重荷を負って苦労している者は私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう」という言葉を聞いたかのように、悔い、詫び、赦されて、涙を流したに違いありません。

  これは個人の問題の譬えだけではありません。人類が今、放蕩息子になるかも知れません。元々は神の財産とも言うべき地球資源を好き勝手に消費しています。地球環境を変えるだけでなく、先端を行く遺伝子工学で命の根源近くに攻め込んで操作しています。だが、やがて手にした物的知的財産によって人類自らが手荒な強敵に遭遇し、防衛のためにすっかりその財産を使い尽くしてしまい、身も心もボロボロになって放蕩息子のように再び神に帰って行かざるを得なくなるのでないかと私は思います。その時、インパサブルな神は人間の想像を超えた仕方で、「死んでいたのに生き返った」人類を迎えて下さることを、放蕩息子の譬えは語っているのでないかと思うのです。

  NAというのは、元はキリスト教に発した薬物依存との取り組みだと思います。日本に取り入れるために多少変形されていますが、思想的な系譜はキリスト教にあると思います。

  NAの集まりで、ルーカスさん(仮名)が初めてNAにつながった頃の話をしたことがあります。15年以上市販の薬の薬物依存で関西の有名大学を中途退学し、彼女は万引きの常習犯でした。依存が酷くなり、一度に120錠入った薬を2瓶飲むことにすらなっていました。それでも精神科に通いながら、自分の真実な姿を打ち明けることができなかったのです。ずっと薬物依存のことは言わずに精神科の病気のことで治療を受けて来たのです。

  だが、自分の手ではもうどうにも出来なくなり、すっかり疲労困憊し切って、医師に打ち明けたのです。偽って来た彼女は、もの凄く怒られると思いつつ話した。すると医師は、「よく打ち明けてくれた」と言って、薬物中毒は病気なんだ、病気だから治療を受ければ治ると言ってくれて、ホッとした。先に一縷(いちる)の光が見える気がした。そこでNAを紹介され、初めてNAにつながった。

  彼女はその頃はまだ、NAは薬物依存から抜け出そうとする人の集まりだから、薬をやめてクリーンな状態で出なければならない、薬に手を出す者は出ちゃあいけないと思い込んでいた。それで、集会に出るのは自分との苦しい戦いだったが、クリーンが3カ月続いた。

  丁度3カ月目に、交際していた男性からメールが来て、「ルーカス、自分に好きな女性ができたので交際をやめたい」とあった。余りの身勝手さに自暴自棄になり、その日薬を買って一度に60錠を飲んだ。だが飲んでも、もはや薬では問題は解決しないと知った以上、薬で鬱憤を晴らすことも気分が楽になったりハイになりもしなかった。

  悶々として、近所で開かれているNAにその夜は出た。すると会の世話役の人が、あなたはもう薬をやめて3カ月だから、今日の司会をしてくれないかと言われて、言葉が出ないほど戸惑いながら、「実はアタシ、今日、薬を飲んじゃったんです。でも苦しくて苦しくて耐えられなくて来ました」と正直に言ったら、「よく来た」と会場内に大拍手が起こったのです。その時初めて、NAは本当のことを話していいんだ、NAは嘘でなく、本当のことを言っていいんだと思った。そしてNAが信頼できるようになった。それ以来、色々困難な時期もあったが12年間、薬物を離れることが出来たと話していました。私はルーカスの真実な告白に心打たれて涙を流しました。

  放蕩息子は父の腕に抱かれて迎えられた。叩き出されると思っていたのに、ここが帰るべき家であった。彼女はNAで受け留められたのです。NAというのは、元はキリスト教思想の中から生まれて来た取り組みですが、彼女はそのNAで魂に一種の休みを得たのです。自分を取り戻した。

  父が見ているのは、死んでいたのに生き返った息子です。私たち人間がいかに道から外れ、迷い出ても、神は私たちを愛する息子・娘として迎えて下さるのです。それが、今日の、「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」というイザヤの言葉で現わされています。

  皆さん、お考え下さい。1)神は愛と喜びをもって、いつも私をお迎え下さる事を知れば、私の人生の何かが変わるでしょうか。  2)神を呼び求めよとか、尋ね求めよと言われている事は、具体的には自分にとって何を意味するでしょう。私の何が変えられなければならないのでしょう。 そして、3)私は、どこで、どのように神を見つけるのでしょう。

             (完)

                                           2016年5月22日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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