蛙を見れば神を思って下さい


                       ピカソ(3)・ルーブル博物館
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                                                    わが慰めの秘密 (中)
                                                    イザヤ55章1-9節


                              (2)
  では、神と人の道はどのように、どれだけ違うのでしょう。

  旧約聖書を読んだ人から、こんなご質問を受けることがよくあります。「旧約の神は些細な過ちにも人を咎め、怒り易く、徹底的に裁く、赦しのない神ではないですか。新約聖書の神とは違うのでしょう?」

  確かにモーセに現われた神や申命記に記された神、また預言書に出て来る神は恐ろしい絶対者で、イエスが啓示された愛の神とどこか違うように見えます。新約では、「神は愛である」とあり、先程ののマタイ11章に、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあったように、愛と配慮に富み、憐れみ深く労(いたわ)りに満ちた神です。

  しかし旧新約聖書をよく勉強しますと、両者の区別は間違っている事に気付きます。イエスが啓示された神と、旧約でイスラエルにご自分を現わされた神は全く同じ神です。

  神とイスラエルの関係は、旧約の出エジプトの出来事に象徴的に出ていますが、そこでは、故郷のパレスチナから遠く離れたエジプトで奴隷状態に置かれていた彼らに、神がどのように現われ、どのようにモーセの手を用いて民を導き出し、解放されたか。40年もかかってシナイ砂漠を導き、日毎にマナを降らせ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを守り、やがて乳と蜜の流れる約束の地、カナンに導き入れられたかを物語っています。始めからだと旧約は数千年に渡る長い歴史です。

  主なる神は歴史を導き、歴史を通して現われた神です。この出来事はまた、過酷な労役を課され、貧しく、虐げられている者たちの叫びをお聞き下さる神を語り、やがて彼らをその囚われから解放して下さる神を明らかにしています。即ち優しさと憐れみに満ちておられる神です。そこでは新約の神と同じです。

  さて、第2イザヤがこの個所で語るのは、旧約聖書でご自分を現わし啓示された神は、私たち人間といかに違った、異質な存在であるかです。

  人間は、攻撃されれば何としばしば反発し、仕返します。目には目、歯には歯。それ以上の反撃をする人もあります。攻撃が最大の防御だと言わんばかりに攻撃する人もあります。傷つける人を赦すことがいかに困難か。自分を振り返ると分かるでしょう。時にそれは至難の業です。妬みはまだ可愛いですが、日本には恨(うら)みと怨念の文化。幽霊になって「ウラメシ~ヤ」と化けて出るまで深く根に持つ文化がありました。日本ほど幽霊物語が各地に残る国は珍しいでしょう。恨みを晴らせない。晴らしたいのです。

  その点、中国の蒋介石は信仰に立って驚くべきことに日本を全く赦したのです。莫大な戦争の賠償を一切求めなかったのであって、それに甘えちゃあならないのです。ましてやそれを決して忘れちゃあならない。だがそんな事を感謝したり、覚えている日本人は今はごく少ない。彼は、「神は愛なり。汝の敵を愛せよ。日本人に危害を加えるもの、また物資を奪うものは死刑に処す」とさえ語って、日本兵の早期帰国を進めたのです。

  イザヤは、神の道とそのお考えは、私たち人間と遥かに異なっていると語ります。人が自分の過ちに気付き神に帰って来れば、神は直ちにお赦しになるのです。私たちと神の関係はいつでも直ちに、今日から新しく始まるのです。赦しとはこの事です。

  神は、相手の態度でご自分の考えを左右されません。生命の源である神は、善をもって悪に応え、ご自分の内に愛の力、悪をも覆う愛のエネルギーをお持ちです。初期のキリスト教徒は、この事を、理解しにくい言葉ですが、「神はインパサブルimpassibleである」と申しました。神は無感覚、無表情であるという意味です。どう言う事かと申しますと、日本の諺風に言えば、「蛙の面に小便」という言葉がぴったりです。無表情。確かに蛙はいたずらっ子たちからそんな仕打ちを受けても無感覚、涼しい顔で全く気にしません。神も人からどんな仕打ちを受けても、言わば無感覚、無表情であられると彼らは考えたのです。これからは蛙を見るたびに神を思って下さい。

  神は人の痛みや苦しみに無関心であるとか、被造物がもがき苦しんでいる事に超然と見ておられるという事ではありません。もしそうなら、聖書が語る神とは違います。それは異教の神です。

  マルコ6章に、イエスは飼う者のない羊の様な多くの民をご覧になり、「深く憐れまれた」と記されています。腸(はらわた)が捻じれて痛くなる程、苦しみ悲しまれたのです。それほど深い憐れみをお持ちでした。神はそれほど私たちの苦しみに関わられます。イエスが遣わされたのは、御子を信じる者が全て一人も失われず、永遠の命を与えられ、救われるためです。

             (つづく)

                                           2016年5月22日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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