愛と慎み


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                          セザンヌ(2)・ルーブルにて



                                                    聖霊による洗礼 (中)
                                                    使徒言行録1章3-5節



                              (3)
  さて弟子たちは、「父の約束されたもの」、即ち神の聖霊を待つように言われ、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」と言われました。「聖霊による洗礼」です。そしてペンテコステ聖霊降臨日に弟子たちの上に神の聖霊が火のように降ったのです。

  「聖霊による洗礼」。一体、これはどう言う事でしょう。教会で私たちが受ける洗礼と違いがあるのでしょうか。また聖霊による洗礼を受ければ、教会の洗礼は不要なのでしょうか。

  使徒言行録2章では、その日、彼ら一人一人に聖霊が激しく降ったように書かれています。ただよく読むと、「激しい風が吹いて来たような音」がしたのであって、激しい霊が降ったのでも、聖霊が激しく降ったのでもなく、炎の様な舌が弟子たちの上に留まり、彼ら一人一人が聖霊に支配されて神の言葉を語り出したのです。その意味では、外面的な水の洗礼でなく、魂の底からの更新、新しい魂の誕生を彼らは経験したのです。

  だが誤解してはならないのは、私たちは聖霊が「激しく降る」とよく申しますが、聖霊というのは激しい霊かと言うと必ずしもそうではありません。聖霊は激しい霊だというのは、聖霊の一面的な狭い捉え方です。旧約で、「サウルに神の霊が激しく降った」とか、「神の霊が彼を襲った」という個所が何度か出て来ます。だがやがて、「神の霊が激しく降った」その彼が、神の手で退けられます。

  クリスチャンの中に時々、激しく語る人がいます。激して来るとドンドン激しく信仰的な言葉が出て来ます。するとこの人は聖霊に満たされた人だと言ったりしがちです。だが激しさというのは、聖霊が降った証拠ではありません。

  第2テモテ1章を見ると、むしろ、「神は、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちに下さったのです」とあります。前の口語訳では、「力と愛と慎みの霊」と訳されていました。激しい激情でなく慎みや思慮分別の霊です。しかもここで大事なのは、聖霊は「力と愛」、パワーをもっていますが、それは愛のパワーです。それに洗礼をお受けになったイエスのことを考えて見ると、洗礼を受けて水から上がると、「神の霊が鳩のように降った」とあるのです。ハゲワシのような激しい霊が降ったのでなく、聖霊がイエスにハトのように平和に優しく降ったのです。

  箴言をご覧下さると、「激情は骨を腐らせる。穏やかな心は肉体を生かす」とあります。先日、耳鼻科に行きました。12時半まで受付とありますので、祈祷会の前で急いで自転車を飛ばして、8分前に着きましたら、「診察は終わりました」と札が出ていました。部屋の電気も消えていて腹が立ちました。どうして約束の12時半まで受付しないんだと、自転車で引き返して心の中で息巻いていました。電話を掛けて聞きただそうと思いましたが、3時から午後の診療があるので夕方出かけました。その途中で、「アッ、木曜日だ。朝から休診だ」と思い出しました。「激情は骨を腐らせる。」悲しいかな、私の心まで腐りそうでした。

  激しい霊に支配されて感情が燃える時は、もしかしたら自分が違っているかも知れないと、慎みをもって、思慮分別を持って考えなきゃいけませんね…。

  聖なる神の霊は、激しい激情よりも穏やかな霊、平和な、静かに燃える霊。そして信仰の霊はいつまでも静かに燃え続ける霊です。むろん激しい霊を否定しません。神が送られるのですから、そういう霊もあるでしょう。だが、聖霊は心の中に静かに語りかける真実な霊です。

  第Ⅰコリント12章には、「聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」とあります。「イエスは主である。」イエスは私の主である。イエスは教会の主であり、世界の主である。こう信じて、私たちは洗礼を受けます。ですから洗礼を受けたということは、本人の自覚は余りなくても、実は聖霊が降っているのです。真面目に洗礼に与る人は、皆、聖霊に導かれているのです。

  だが自分は聖霊に導かれた。聖霊が自分に降ったと幾ら声を大にして語っても、洗礼へと導かれなければ、果たしてその方は聖霊に導かれているかどうか分かりません。聖書を滔々と激しく語ることが出来ても、それだけで聖霊が降っているとは決して言えないのです。洗礼を否定する人たちもありますが、イエスも洗礼を受けられたことに素直に従いたいと思います。それが初代から続くキリスト教です。

  今、私は洗礼の大事さをお話しています。また、「イエスは主である」と信じる時、私たちは皆、「聖霊による洗礼」を授けられていると申し上げたいのです。

  この事は第Ⅰヨハネ4章でも、「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」とあります。ここからも、イエスを信じる信仰に導かれたのは、聖霊に導かれていることだと分かります。

         (つづく)

                                           2016年5月15日




                                           板橋大山教会 上垣 勝




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