神がもし目で見えたら


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                          セザンヌルーブルにて



                                                    聖霊による洗礼 (上)
                                                    使徒言行録1章3-5節



                              (序)
  今日はペンテコステ聖霊降臨日です。エルサレムに留まっていた弟子たちに、聖(きよ)き神の霊、キリストの霊が降って、彼らは聖霊による洗礼を受けたという日です。聖霊が降った彼らは、町に出て復活のキリストを宣べ伝え始め、後には地中海世界に遍く伝道し、時には行く手を阻まれることもありますが、聖霊に導かれて進んで行きました。ですからペンテコステは伝道開始の日、教会の誕生日と言われます。

  今日はその聖霊について共に考えましょう。

  新しく生まれた教会は、イエスの復活の霊に満たされ、導かれていました。それで祈りと喜び、賛美と感謝をもって生きていたようで、迫害にも拘わらず、彼らは、「イエスの名のために辱(はずかし)めを受ける程の者にされたことを喜んでいた」と5章に書き留められています。迫害すら喜びと感謝をもって受け留めるようになったのです。

  また、今日は触れませんが、初代教会は非常に忍耐強く、寛容であり献身的でした。彼らは生活を通してイエスの福音を生きていたと言ってよいでしょう。1節に「わたしは先に第一巻を著して」とあるのは、ルカによる福音書のことです。同じ著者がこの使徒言行録を書いているということです。

                              (1)
  さて今日の3節に、「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。

  イエス様は十字架で殺されたが、復活して今も生きていることを数多くの証拠で示されました。例えば、マグダラのマリアとの出会い、弟子たちに手の釘跡をお見せになったこと、ガリラヤ湖畔で弟子たちと焼き魚をお食べになったこと、エマオ途上の2人の弟子との出会いなどは、「数多くの証拠」の幾つかです。

  これらを通して、「今もイエスは生きている」という事、この一点を弟子たちの心に深く焼きつけ、分からせられたのです。「今も、イエスは生きている。」その事を人が知れば、たとえ試練の中でも勇気をもって生きることが出来るでしょう。十字架で一巻の終わりではなかった。今も生きておられる。これが一番大事なことです。

  それにしてもイエスはなぜ、誰にも見える形で存在されないのでしょう。神がおられるなら、見える形で存在して頂いた方が釈然とするのではないでしょうか。

  ただ、もし誰にも分かる形で存在されたら、多くの人には実に不都合です。「誰かが見てるぞ!」という、歌舞伎役者の目元がデザインされたステッカーがあります。何かイヤな監視の目を感じるのですが、暫らく前の都知事の発案だったと聞きました。やはりそうかと思いました。誰にも分かる形で神がおられれば、神が「見ているぞ」という脅しになるでしょう。神は普遍的な存在ですから、神は世界を監視するグローバルな警察官。神の国は世界秘密警察になるでしょう。

  そうなら神との出会いの喜びはありません。神との人格的出会いこそ、神に造られた人間の一番深い次元にある喜びなのに、その最も大事なものが消滅します。「神はご自分に似せて人をお造りになった」とは、神は私たちを人格的な相手として創造したという事ですが、監視が神の仕事なら、その人格的な神との関係がなくなるのです。

                              (2)
  次に「40日にわたって彼らに現われ、神の国について話された」とありました。40日は聖書で完全数です。正確な40日でなくても、弟子たちが力を得て、宣教に遣わされるのに必要な十分な備えの期間の事です。時が満ちる聖なる期間です。

  ゴールデン・ウイークは巨峰の房に付いた沢山の蕾(つぼみ)を半分以下にそぎ取る作業や、管理しやすいように蔓(つる)を配置する作業をしました。4年目に気づいたのは房ができる位置です。新しい蔓が伸びるとほぼ4つ目と5つ目の節にブドウの房がなるのです。その後は幾ら伸びてもブドウはなりません。だからその先に10枚ほど葉ができた所で先端を切って芯を止めなければ、ブドウに十分栄養がいきません。知識としてありましたが、この簡単なことを本当に知るのに丸4年かかりました

  弟子たちが十分復活の主から力を得て、キリストの復活を頭だけでなく主との出会いの中で本当に知った後に、始めて宣教に遣わされる。その為に40日が満ちなければならない。十分時が満ちて彼らは世界に押し出されたのです。

  次に、「彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた」とあります。復活した方が食事をしたというのは実に不可解ですが、復活のイエスが彼らと食を共にしたのは、私は食べることのできる存在として君たちの側(そば)にいるよと言わんが為でしょう。食事は人間の最も基本的な部分ですが、そこで共にいて下さる、足元で共にいて下さるということです。

  もし、イエスは生きていない。もはやイエスはいないし、神などどこにもいないとなれば、弟子たちは闇夜に独り放り出された子どもの様ないたたまれない思いになったでしょう。実際弟子たちは処刑で主を失い、暫らく腑抜(ふぬけ)けのようになりました。「結局世界は弱肉強食、強い人間が幅を利かして生きている。泣く子と地頭には勝てぬ、長いものには巻かれろとはよく言ったものだ。弱い者は泣き寝入りするしかない。それが世間さ……。」神なんてどこにもいないさとなれば、私たちだって、そんな暗澹(あんたん)たるニヒリスティックな思いがドッと津波のように押し寄せて来るかも知れません。実際今の日本社会には、経済的な厳しさと絡んで、そういうやり切れない思いをしている人たちや青年達が沢山います。

  だがイエスは社会の片隅で傷つき、悩み、泣いている私たちを探し求め、99匹よりも大切な一匹として探し出して下さる。君はその一匹だと言って喜んで迎えて下さる。そのように出会って下さるのが、今も生きておられる復活のイエスです。

  「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という言葉は、ルカ24章にも出て来ますが、納得が行くまで分からせて頂く。それ迄、待ちなさいという意味です。

  人生は急ぐ必要はないのです。イエスは機が熟するまで待って下さる方です。箴言には、焦って口を開こうとすなとあります。謙虚に待てばいいのです。だが主は必ずお与え下さると、信じて待つのであって、疑って待つのではありません。

  インドで70代のご夫婦が男児を与えられたそうです。奇跡に近いと騒がれています。だがアブラハムは100才まで待って与えられました。70代の時、将来、あなたに子どもが授けられると約束されて、疑うこともありましたが、信じて待ちました。そして100才でイサクを授かります。その結果、彼は不可能を可能にして下さる神を信じるようになり、信仰の父と仰がれるようになります。インドのご夫婦は体外受精だそうです。

         (つづく)

                                           2016年5月15日




                                           板橋大山教会 上垣 勝




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