私たちが もみ殻にならないために


                        ステンドグラスの修復(3)
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                                                 幸せにいたる人類の道(下)
                                                 詩編1篇1-6節


                              (2)
  第1編の後半では、「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」とありました。非常にきつい言葉が記されています。余りに白黒をはっきり付け過ぎるきらいが無きにしもあらずで、現代人には戸惑いがあります。

  しかしやはり詩編に、「死ぬまで彼らは苦しみを知らず、体も肥えている。誰にもある労苦すら彼らにはない。目は脂肪の中から見廻し、心には悪だくみが溢れる。高く構え、暴力を振るおうとする。みよ、これが神の逆らう者。とこしえに安穏で、財をなして行く」(73篇)ということさえ語られます。ですから、当時、2千数百年前の旧約の人たちの中にも、白黒を単純につけることに異議を唱える人たちがいたのでしょう。納得いかないが悪人が栄える事態があるのです。また、「神に逆らう者の安泰を見て、私は驕る者を羨んだ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことで苛立つな、…自分も悪事を謀ろうと苛立ってはならない」(37篇)と自分を諌めているのは、神の逆らう者の道が滅びに至るとは、単純には言い難いという思いを持つ人がいたからでしょう。

  しかし実ともみ殻の譬えは本当にそうだと思います。また、「神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」と誰かに言って貰いたいし、最後的に神がそう審判されるでしょう。「神に従う人の道を主は知っていてくださる」という言葉は、何と慰め深く有り難い言葉かと思います。私たちは大きな慰めをここから得ます。

  イエス様は「求めよ、さらば与えられん。門を叩け、さらば開かれん」と言われました。神に逆らう者や傲慢な者はどうなるかはいざ知らず、それはもうどうでもいいのです。私たちが「求めよ、さらば与えられん」というみ言葉を本当に真実だとするかどうかだと思います。人間関係でも困難な色々な課題でもです。門を叩けとは、門を一回きり叩けばいいというのでなく、何度も、何度も、叩き続けることです。東大寺には巨大な梵鐘(ぼんしょう)があります。高さ4m、重さ約30トン。あの巨大な梵鐘は細い杖で叩いてもウンともスンとも響きません。しかし何回も何回も叩き続ければ、次第にウオーンと地鳴りのように鳴り響いて来ます。私たちの門も叩き続けなければ開かれません。神は門を開こうとして私たちの熱意ある求めを待っておられるのではないでしょうか。

  人類は個々人からなります。だから70億人いれば70億の個々人が幸せの道を歩んでこそ、人類全体が幸せに至ります。個々人という事を心に銘記しなければなりません。

  だがそれだけでなく、現代の様なグローバルな国際化時代では、一国の枠組みを越えて世界が協力し、一人一人が幸福に至るような枠組み作りをしなければならないでしょう。

  そう考えると、「神に逆らう者の道は滅びに至る」という言葉は、今日の「世界」に対する警告、「世界」の在り方に対する神の厳しい警告でしょう。神に逆らって、一部の人たちがべら棒な富を蓄え、そういう人たちに限ってタックス・ヘブンとか何とかで外国に資産を移し、多額の税金を誤魔化して巧妙に生き、また傲慢である。だがそれはやがて必ず風に吹き飛ばされる籾殻(もみがら)となり、神の最後的な裁きの下に置かれると詩編第1篇は語るのです。

  大分前にご紹介した、南米ウルグアイの元大統領のムヒカさんが先月来日し、暫らく話題になりました。暫らくと申しましたが、日本ではこういう現代に鋭いメッセージを放つ方もすぐ忘れられます。マスコミ人たちはドンドン人を消費して、意識的にか賞味期限を実に短くしています。

  ムヒカ元大統領は、世界で最も貧しい大統領として慕われ、大統領官邸に住まず、田舎の農場に奥さんと二人、いや警備員とで3人が牛や豚や鶏たちと住んで、ポンコツ車で官邸に通っていたという人です。確か4度逮捕され、銃弾を6発も浴び、1972年から13年獄中生活をした人です。

  ムヒカさんは、どこの国ももっと豊かになるために情け容赦ない競争をしつつ、国際会議では「心を一つに、皆一緒に」と良いことづく目を語っていると指摘します。目の前の危機は地球環境の危機もさることながら、人類の生き方の危機だと語ります。私たちは、発展するため、沢山のものを生産するため生まれて来たのか。この惑星で幸せになりたいからでないのかと問うのです。今の世界を覆っているのは、欲深さであり、貪欲という妖怪でないか。妖怪が地球をうろつき回っていると指摘するのです。貧乏とは、少ししか持たないことでなく、限りなく多くを必要とし、もっともっと欲しがる生き方だ。貪欲こそ貧乏の徴だと語るのです。人類の危機は、私たちが求める幸せの中身が問題なのだということでしょう。

  ムヒカさんの発言からも、貪欲や傲慢な生き方を変え、聖書によれば神と神の摂理に逆らう生き方を変えなければ、滅びに至るのでないかと思います。

  この第1篇は私たちの個人の生き方、個人倫理だけでなく、社会の在り方、更にはグローバルな人類の在り方に警告を発していると思います。

  先週も触れましたが、今、世界を覆っているのは死の力です。世界経済の委縮、政治的停滞、その上膨大な難民の流入。その困難の前で悲観する者、冷笑する者、苛立つ者があります。だがイエスによって死は既に打ち破られたのです。悲観的になってはならないのです。恐怖で委縮してはならないのです。どんなに困難であっても忍耐し、「神に逆らう者の計らいに歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさみ」、もがき苦しみながらこの試練と困難に立ち向かう。その時、「ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない」と言われることが実現して行くのではないでしょうか。

  幸せに至る人類の道がこの詩編1篇に示されているのです。一人一人、私はどう生きるのか、社会や国、また国際社会はどういう歩みをするのか。個人でも国際間でも、独り勝ちや貪欲な欲望追求の道でなく、また傲慢の道でなく、何とか人類全体の解決への道を見つけて進むべきです。今、21世紀の人類は命に至るのか、死に至るのか。神の前に問われていると思います。

          (完)
 
                                           2016年5月1日



                                           板橋大山教会 上垣 勝




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