世界をおおう悲観主義を越えて


                         ステンドグラスの修復(1)
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                                                裁判にかけられたイエス(下)
                                                ルカ22章66-71節



                              (2)
  イエスは、「では、お前は神の子か」と尋ねた大祭司の問いに、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」と言われました。すると人々は、「 これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言ったのです。こうして彼らは、イエスを神への冒涜罪にすることに決定したのです。

  「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」この言葉が、本人が神の子だと言ったことになるかどうかよく分かりません。そう判断するのは勇み足の気がします。しかし彼らは猛り狂っていますから、猛り狂えば狂う程、独善になり、歪んだものになったのでしょう。

  ある注解者は、大祭司が「では、お前は神の子か」と尋ねた時、これはイエスの裁判の決定的な瞬間であり、「全宇宙が固唾(かたず)を飲んでイエスの回答を待った」(バークレー)と書いています。もし「違う」と否定すればイエスを告発する理由が無くなります。他にイエスを有罪にできる理由がないからです。イエスが「違う」と言えば直ちにその場で釈放されたでしょう。反対に、もし「そうだ」と言えば、イエスご自身が自分の死刑執行書にサインした事になります。「そうだ」という言葉一つで十字架が決定されるのです。まさに固唾を飲んで見守る瞬間です。

  その中でイエスは、「そうだとは、あなたたちが言っている」と言われました。この言葉には肯定も否定もないあいまいなものがありますが、イエスはこの言葉であっても、彼らの独善で十字架刑が決定されると知っておられた筈です。ですから十字架刑を覚悟でこう語られ、これが決定的になったのです。ローマ総督の許可なしに処刑できませんが、ユダヤ最高議会サンヒドリンは死刑を確定したのです。

  ここにはイエスの勇気が現われています。この言葉を語れば死刑になることを知りながら、迷わず返答されました。もしイエスが別の言葉を語れば死刑を免れたでしょう。

  この勇気こそイエスの確信の表れです。イエスはこの日の午前、ゴルゴタの丘に至る十字架への道をお進みになります。それにも拘らず神こそ一切を治めておられる方であり、やがて「人の子は全能の神の右に座る」ことを確信しておられたからです。何者であろうと神が意図されるものを阻止できないと知っておられたからです。

  繰り返しますが、イエスの心を支配していたのは「神の平和」です。父なる神による平和です。この平和が心の中心にある時、私たちも苦難の中にあっても喜びに向かって歩み続けることが出来るでしょう。

  「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」父なる 神がイエスの地上での働き一切を「それでよし」とされ、イエスは神によって義とされて、「全能の神の右に座」られるのです。その時、イエスは神に義とされて平和と喜びを得られるのです。神に義とされるなら、いかなる力もこの平和と喜びを潰すことが出来ません。

  明治の初年、未だキリシタン禁制の頃、日本のあらゆる学問に通じていた奥野昌綱がヘボンの聖書翻訳の手伝いをして、やがて洗礼を受け、日本最初の牧師になりました。彼が宣教師の手伝いをしていた頃、「あなたは役人につかまり処罰されることを恐れないのか」と聞かれ、先程申しました、「彼らは私の首を切り落とすことは出来ても、私の魂までも切り落すことは出来ない」と答えたと言います。イエスに従った奥野は、いかなる力も主による平和と喜びを潰すことは出来ないと言いたかったのでしょう。

  「平和と喜び。この2つは福音の真珠である」と言われるのは永遠に真理です。神からの平和と喜びがあれば、いかなる不安も鎮められるからです。色々な試練や困難を乗り越えて行くことが出来ます。

  しかもイエスは、ご自分が得た平和と喜びをご自分のためにだけ用いられるのでなく、ご自分の周りに集まった人たちを励ますために用いられたのです。神への冒涜だ、処罰せよ、処刑せよという叫びを聞いても恐れず、人類に救いの道を開くために十字架と死の向こうにある復活の喜びへと向かって行かれたのです。

  今、世界を覆っているのは一種の悲観です。世界経済の委縮、政治的な停滞、その上に膨大な難民がヨーロッパに流入してどうすればいいのか皆困り果てています。世界は色々な困難に取り巻かれて自信喪失し、それを冷笑したり、嘲笑ったりする者たちがあります。ISも嘲っているでしょう。しかし悲観し、冷笑するだけでいいのでしょうか。それで世界の問題が解決するのでしょうか。むしろどんなに困難であっても忍耐し、もがき苦しみながらこの試練と困難に立ち向かうなら、必ず問題は解決して行くでしょう。短期的には実にしんどい時ですが、倦(う)まず弛(たゆ)まず解決のために努力して行けば長期的には必ず克服していけるでしょう。

  イエスは、全てのものをも冷笑し嘲笑う死の力の前でも、悲観されません。むしろ神と共に働いて明日への希望を備え、命の未来を育んで行かれました。

  死の力は究極です。だがイエスは死の力の先、死の力の向こう側を既に先取りして、復活への歩みを進み行かれるのです。私たち人類に、信じ従う者たちに希望を与えるためです。イエスの復活において、死ははや打ち破られるからです。

  繰り返しますが、死の力は人の全ての努力に冷笑を浴びせます。人々に皮肉っぽい態度を取らせます。今世界を覆っているのは死の力です。だがイエスによって死は既に打ち破られたのです。悲観的になってはならないのです。個人の歩みについても社会や歴史の歩みについても、長いスパンで考え、楽観的にもっと心に余裕を持って何とか解決への道を見つけて進むべきです。また孤立したり独善になったりするのでなく、周りの人たちと協力し、一緒に働かなければなりません。

  イエスの復活は悲観や冷笑とは正反対です。神はおられます。その恵みを信じて、試練の中でも苦闘するのです。その時に道が開かれます。道が開かれるために忍耐と鍛錬と信仰が必要になります。

           (完)

                                          2016年4月24日


                                          板橋大山教会 上垣 勝




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