すべてを包み込む温かい目


                    今年は満開の桜でなく一分咲に魅せられました
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                                                焚き火にあたるペトロ (下)
                                                ルカ22章54―62節
        

                              (4)
  ここにイエスの目が出て来ます。イエスも女中と同じように、ペトロを「見つめられ」たとありました。では、イエスは裁きの目で睨みつけられたのか。悲しみに沈んだ目であったか。あるいは憐れみの目、弱きペトロを慈しむ目であったのか。イエスの目は弱きペトロに怒っていたのでしょうか。「愚か者めが」と、3度否認し信仰を貫けなかったペトロを蔑すむ目だったでしょうか。それとも彼を悲しむ憐れみの目だったでしょうか。

  イエスは振り向き、焚き火に赤く照らし出された、50歩と離れていない所にいるペトロの姿を認められたのは確かです。私は、イエスの目は3度否んだ彼の存在のすべてを包み込む目であったと思います。

  いずれにせよ、女中の突き刺す目とは明らかに違います。「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあるギリシャ語は、「顔を上げて、確かめるように見ること。顔を上げて確認する」の意味です。女中とは違ったギリシャ語が使われています。

  イエスは振り向き、ペトロが官邸の庭まで付いて来たことを確かめられたのです。確かめられて、君は恐れずこんな所まで来てくれたのか。どんなに怖かっただろう。善かつ忠なる僕よ、よくやった。君は私のために勇敢であったから、厳しいこの試練を受ける目にあったのだ。ペトロを理解するそうした温かい師のすべてを包み込む眼差しを感じたからこそ、ペトロは胸の奥から突き上げて来くるものを感じて激しく嗚咽(おえつ)したのでしょう。

  イエスの変わらぬ愛に触れて、外に出て激しく泣いたのです。主は私のことを全て知っておられる。主と自分の場所は今や権力の手で隔てられているが、主は私から遠く隔たった所におられるのでなく、私の近くに、いや、私と共にいて下さる。私も主と共にいよう。こわごわ付いて来た臆病な私とも、隠れキリシタンのように自分の正体を隠そうとした自分とも共にいて下さる。自分を守って3度主を否んだこの弱き我とも共にいて下さるとは……。

  それと共に、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度わたしを知らないと言うだろう」と予言された主の言葉が激しく胸を刺したでしょう。自分は血気にはやって、自信満々で、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と約束した。それを思い出して罪に泣き、自分に敗れた悔しさに泣き、恥ずかしさと愚かさに泣き、それ以上にあの時、主が、「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われた言葉を思い出し、「信仰が無くならないように祈った」と言われたことの重大さを思って、自分の 将来のために祈って下さるイエスの愛に涙が止めどなく溢れて、後から後から流れたでしょう。尊大であったあの時の愚かな自分に忍耐して下さったその愛に涙したのです。

  いずれにせよ、彼が「外に出て、激しく泣いた」姿に、複雑な色々なものが混じっています。自分のふがいなさと罪と共に、温かい愛の眼差しに触れて激しく泣いたでしょう。挫折を通し、彼は初めて神の愛を知ったのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ペトロは今初めて、この事を知ったのです。そして、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というお言葉に、「君は自分の弱さと罪に慟哭するだろう。だが、それを経験した君こそ、同じ悲しみを経験する兄弟たちを励ますことが出来るだろう。ペトロよ、強くなれ。立ち直れ。苦悩を味わい、罪と恥の奈落に落ち込んだことがある者こそ、兄弟たちを真に助けることが出来るのだ」という声が、耳元で囁くのを聞いたでしょう。

  以上が、焚き火に当るペトロに起こったイエスの愛の出来事です。

                              (5)
  最後に、私たちはここで意外なことに気付きます。彼は「外に出た」のです。外に出れたのです。誰も捕縛しようとしなかったのです。あれだけ恐れ、緊張し、いつ立ち去るべきか、今か、今かとコチコチになっていたのに、彼らはペトロを逮捕しなかったのです。

  大祭司や下役たちには、ペトロなどは問題でなかったのでしょう。大将さえ捕まえればそれでよかったのです。恐怖に駆られると人は往々にしてこうなります。「人を恐れると罠(わな)に陥る、主に信頼する者は安らかである」と、箴言にある通りです。

  彼は恐怖心に縛られて自由に動けなかったのです。大祭司の中庭での出来事で、今や彼の自負心はことごとく砕かれたのです。弱さも罪も明らかになり弟子の誇りが取り去られた。だがその時、彼は真の弟子になったのです。

  今日の個所はペトロの最大の危機です。だが危機こそチャンスです。彼は後に、パウロからボロクソに言われもします。君は信仰が分かっていないと言われます。イエスの十字架の意味を本当に知っているのか。私たちは神に自由にされたのだ。それがどれだけ重大な意味をもつかを、などと。しかしボロクソに言われながら、彼は教会の柱になっていくのです。彼の生涯はいわば満身創痍です。しかし満身創痍こそキリストの弟子である証拠なのです。

  キリスト教会はペトロの信仰の上に建てられたと言われます。もしそうなら、教会が始まるのは、この挫折からです。この傷からです。挫折を持つから、それを真に自覚するから、ただイエス・キリストの憐れみの上に生きようとするのです。旧約聖書が示すイスラエルの挫折。その向こうに世界の新しい望みとなる、新約聖書の新しい時代が始まったのと同じです。

  だから教会は常に主イエスのみ言葉を捕えようとし、み言葉によって養われようとし、体を前に伸ばして、神の御心を聞こうとするのです。

       (完)

                                          2016年4月10日



                                          板橋大山教会 上垣 勝




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