不逞の輩よユダ





                    堺は刃物の町、刃物の種類の多さに驚きました。
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                                                闇が力を振るう時にも (上)
                                                ルカ22章47‐53節
       

                              (序)
  今日は花冷えですが、3月は何回か寒の戻りがありました。一旦春のような陽気があったのに、翌日は真冬に戻り、風邪を引いた方もいらっしゃったでしょう。寒の戻りとか、梅雨の戻りとか、出戻りという嫌な言葉もあり、戻りには余りいい印象がないようですが、でも税金の戻りでホクホクした方もいたでしょう。嬉しい戻りです。戻り鰹もおいしい。

  先週はイースターまで進みました。ところが今日の個所はまた受難週の木曜日の出来事まで戻ります。一旦イースターの喜びを味わったのに、またイエスの苦難、闇の力、イスカリオテのユダの裏切りと、聖書で最も暗い闇の出来事を学ぼうとしています。しかし明るさから暗さへ、喜びから苦しみへという戻りを通して、私たちの信仰は浮ついたものでないこと、現実の闇を決して避けないこと、現実から目をそむけないこと、しかもそこに良い知らせがあることを改めて知る機会になれば意味があります。

  キリスト教は現実を逃れて、ハレルヤ、アーメン、ハレルヤ、アーメンと皆で陶酔するようなカルト集団ではありません。

                              (1)
  「イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、12人の1人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた」とありました。

  このすぐ前には、ゲッセマネの園で祈りの戦い、祈りの戦場とも言うべき、血のような汗を流して精魂込めて祈られましたが、弟子たちの所に戻って見ると、彼らは悲しみの果てに眠ってしまっていた。イエスはそれを見て、あなた方の熟睡の間に、父なる神に切に祈っていたこと。この苦き杯を取り除けて下さい。それが叶わぬなら、御心がなりますように。サタンが勝利することが決してないよう、弟子たちをお守り下さいと、訴えていたことを淡々と彼らに話しておられたのでしょう。

  そこへ突然、群衆が松明をかざし、剣や棍棒を手に、取り押さえに来たのです。日本の時代劇なら「御用だ、御用だ」と提灯をかざしてイエスを照らし出したでしょう。暗闇に目をこらすと、先頭に12弟子の一人、イスカリオテのユダが、彼らを先導しているではありませんか。ユダの後には沢山の群衆がいます。

  彼は、イエスに近づくと親しみを込めて接吻しようとしました。接吻は友情、親しみ、信頼を込めた挨拶です。だが、厚かましくも、接吻を合図にイエスを裏切ろうとした。実に図々しく不逞の輩です。不逞とは、勝手な振る舞い、けしからぬことと広辞苑にあります。

  イエスはすかさず、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と問われた。直ちに見抜かれたのです。「ユダ」と彼の名を呼び、「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と弾丸のような言葉を投げられたのです。それは図星であり、目の前で起こっている紛れもない事実であり、イエスの言葉は彼の脳天に命中したでしょう。

  武蔵が言っていますが、電光石火が大事です。イエスの言葉も電光石火でした。

  ユダの振る舞いを四字熟語で言い表わせば、面従腹背(めんじゅうふくはい)です。当人の前では良いことを言うが、蔭でかれこれ言う。表は尊敬を見せかけ、内心は反抗する意味です。キリストに対して表では信頼を表わし、蔭で陰険な取引を祭司長らとしていたのです。ユダまで行かなくても、そのような事をしていると人の信頼を失います。

  すると、「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。」

  弟子たちはイエスに尋ねました。だが返事を聞く前に直ちに切りつけた。イエスの許しなく発作的に切りかかって大祭司の僕の耳を切り落としたのです。

右耳とあります。刃(やいば)は頭をかすめ、彼の右耳をかすって一部を切り落としたのでしょう。左耳だと刃は大動脈を切り、頸椎(けいつい)を砕いたでしょう。

  咄嗟(とっさ)の出来事です。イエスは「やめなさい、もうそれでよい」と言って、その耳に触れていやされたとあります。「もうそれでいい」とは、少し仕返しをして痛い目にあわせたからもうそれでよいという意味ではありません。「よせ、やめておけ」と制止の言葉です。そして、その場に耳を押さえてうずくまる僕に駆け寄り、抱きかかえる様にしてその耳に触れて癒された。

  驚くべき場面です。イエスにとっては、敵も味方もないのです。憐れみだけがあります。思い遣りと慈悲、労りと痛みを負う者への共感があります。敵に対しても痛みに共感を持たれる。癒すとイエスの中から力が出て行ったと別の個所にあります。癒しは命を注ぐ愛の行為です。

  ここに深い愛をたたえたイエス人間性豊かな姿があります。イエスゲッセマネで起こったユダヤ人による騒動に拘らず、落ち着いて人を労(いたわ)り、沈着に愛を注がれる方として接しられたのです。敵をも癒す救い主です。

         (つづく)

                                          2016年4月3日



                                          板橋大山教会 上垣 勝



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