大胆な信仰


                           堺の鉄砲家事屋敷
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                                                    大胆な信仰 (下)
                                                    ヨハネ20章24-29節


                              (3)
  するとトマスに語りかけられたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 するとトマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

  キリストが来られたのは、トマスのためでした。不信仰者を救うためにおいで下さったのです。彼はこの言葉に、キリストは今も自分の様な、汚れた、疑い深い者のためにいて下さることに驚き、畏れたのです。涙を流したかも知れません。未だイエスの痛みは癒えないでしょうに、指を釘跡に入れ、手を脇腹に差し入れて、槍跡にも触れて見なさいと言って下さる。臍を曲げて「信じない者でなく、私を信じる者になりなさい。」何と愛の深いお方だろう。

  復活のキリストが再度来られたのは、迷える羊であるトマスを救うため、また亀裂が入り崩壊しかかっている弟子集団をもう一度一体にするためです。

  イエスは選んだ者らを捨てられません。恐れで怯(おび)える者らの所にも来て、私たちの真ん中に「平和の主」としてお立ち下さるのです。教会とは復活のキリストが真ん中に立って、「あなた方に平和があるように」と語りかけて下さる所です。それ以外の所ではありません。

  イエスはこの極めて小さい弟子集団を大切に愛されるのです。ユダは自ら自滅して行きますが、その他は一人も失われないように、信じないトマスのためにも来られました。

  「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思っているのは、そのバラの花のために、時間を無駄にしたからだよ」という言葉が「星の王子さま」に出て来ますが、イエスは弟子たちのために、多くの時間を無駄にして来られました。その無駄は、ただ彼らへの愛のためです。愛だけのためです。

  今日はありませんでしたが、朝早くから、求道者会を開くのは、教会に新しく入って来られる皆さんが、将来この教会を担う方になって頂きたいからです。そのため労力を使うのは決してやぶさかに思いません。教会が今後、キリストの栄光のために百年、2百年この地で良い働きをして行って頂きたいからです。

  トマスはイエスの言葉に、「わたしの主、わたしの神よ」と申しました。キリストという畏れ多い方が、自分を愛し、再び来て下さったことに感謝し、あなたは私の主、私はあなたを信じ、あなたを崇め、あなたに服しますと、最大級の服従の言葉をここに告白したのです。これが私たちの教会です。下品な教会、濁った教会、空気を悪くする集まりではありません。そういうものにしてはならない。教会は人が多くなくてもいいのです。ただまごころ、イエスへの真実で貫かれた教会でなくてなりません。そこから甘く新鮮な命の水が湧いて来ます。

                              (4)
  イエス様はトマスの告白を聞いて、「分かった、君は良い子だ、ヨシヨシ」と言われず、更に厳しく「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」 と、彼の実証的なレベルの信仰を更に高い次元の信仰へと飛躍させて行こうとされたのです。

  「見ないで信じる人は、幸いである。」これは盲目的信仰ではありません。盲目でなく、もっと次元の高い所に大胆に飛躍するように求められたのです。「見ないで信じる人は、幸いである。」ヨハネ福音書全篇はこの事に向かって書かれて来たと言われます。イエスとトマスのこの対話は、この福音書が語らんとする全編のクライマックスをなしているのです。

  私たちはどんな人生の経路を通って今に至っていてもいいのです。最後に、このクライマックスに至ること、そこに人生最大の幸いがあると語るのです。

  トマスは、君の指を私の両手の釘跡に入れて見なさい。脇腹に手を差し込んで調べて見なさいと言われて触った時、咄嗟に悟ったでしょう。これらの傷は、私たちがこのお方を見捨てて逃げた時に付けられた傷だ。自分らが一目散に逃げる背後で、ガンガンと太い釘を打ち込まれて出来た傷だ。咄嗟にそれを悟り、涙したでしょう。

  しかもこの方が、「シャローム。あなた方に平和があるように」と、にこやかに、晴れやかに、穏やかに言われる。熱い涙が止まらなかったでしょう。「悪かった、今それが分かりました。」愛のイエスに触れて、目からウロコが落ちたのです。

  この後、弟子たちが大胆にキリストを信じ、大胆にキリストの復活を証しする生き方を選び取って行ったのは、このようなキリストとの熱い出会いがあったからです。キリストの愛が彼らを大胆にしたのです。

  「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 これはトマスだけでなく、万人に向けられた言葉です。反対から言えば、復活のキリストの喜びは万人に開かれた恵みです。イエスは、大胆に信じる者、幼子のように信頼する者は救われると言われたのです。即ち私たちを含めた後世の全ての人たち、地上を歩くイエスを見ることがなく、復活のキリストを見ることもない人たちに向かって、「見ないで信じる人は、幸いである」と言われたのです。

  弟子たちはやがて復活の証人になり、世界中に伝道に出て行きます。彼らは、神がイエスを死者の中から復活させられ、イエスを義とされたと証ししました。

  イエスが十字架で死に殺された。失意の中にあった弟子たちに、新しい大胆な出発を授けたのがイエスの復活です。イエスの愛なしには、彼らに生き方の大胆さも、信仰の大胆さ、愛の大胆さも決して生まれて来なかったでしょう。

       (完)

                                          2016年3月27日




                                          板橋大山教会 上垣 勝



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