喜びにあふれるキリスト
堺駅のラウンドアバウトに郷里の歌人与謝野晶子の銅像があり、歌が記されていました。
「ふるさとの潮の遠音のわが胸にひびくをおぼゆ初夏の雲」
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大胆な信仰 (中)
ヨハネ20章24-29節
(2)
「さて8日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」と26節にありました。8日目とは1週間後のことです。
この日も、弟子たちは用心深く戸に鍵をかけ、息を潜めていました。ただ前回との違いは、トマスも一緒にいたことです。だが弟子たちの間には亀裂が起こっていました。トマスと彼らの間に、平和が潰れていた。外ではイエスを十字架に架けたユダヤ人たちが、弟子集団も根絶しようと捜索していたでしょう。ですから、彼らは内憂外患の中で不安を抱えていたのです。
トマスはピリピリして、他の者が話しかけるのも気が引ける状態だったでしょう。人間というのは、臍(へそ)を曲げると中々心を開かないことがあります。醜い現実ですが、当人は中々打開できない。職場の中でそんな経験をなさる方もおられるでしょう。貝のように口を閉じ、こじ開けようとしても開かないし、開けようとすればするほど益々意固地になって心を閉ざす。ほとほと困ります。貝なら、金槌で叩き割るでしょうが、それは人間に出来っこない。
ただ軍隊ならしますよ。心も叩き潰(つぶし)ます。
臍を曲げる。家庭の中でこんなことが起こると、空気が悪くなって子供らはたまったものではありませんが、家庭でも時に起こります。どっちが歩み寄るか。「さっきはご免」とか何とかチョッと言って、ばつが悪くてもどっちかが歩み寄るのが決め手です。「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪を赦したまえ。」主の祈りは、私が先ず赦すと祈ります。歩み寄るには、赦さなければなりません。
フランシスコの「平和の祈り」はよくご存知でしょう。「神よ、私を、あなたの平和のために用いて下さい。憎しみのある所に愛を、争いのある所に和解を、分裂のある所に一致を…もたらすことができるよう助け導いて下さい。神よ、私を、慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを望ませて下さい…」と祈っていますが、これは私たちキリスト者の心からの祈りです。自分をこういう成熟した強い人間にして下さいと祈ります。
いずれにせよ、トマスと他の弟子たちの間に確執(かくしつ)がありながら、同じ部屋で戸口に鍵をかけて息をひそめて集まっていた。その部屋に、復活のイエスが入って来たのです。
復活のキリストに気付いたトマスは、そのことに大変驚いたでしょう。復活のイエスは、鍵が掛っている部屋に入って来られる方であることを知って声も出なかったでしょう。人の理解を越えた存在であることに恐れ、畏怖感を抱いたでしょう。
そのイエスが、「あなたがたに平和があるように」と言われた。互いの確執や衝突、不信仰をお責めにならず、またイエスを見捨てて逃げ去ったことも責めず、先ず平和を語って下さるイエスに、喜びと恐れと戦きを感じ、目から鱗のようなものが落ちるのを感じたでしょう。
見上げると、真ん中にお立ちになったキリストは、復活の勝利の喜びに溢れ、実に健やかに、晴々しておられたのです。そのお姿を見ただけで悩みが吹っ飛んだでしょう。イエスが私たちと共におられるということは、そういうことなのです。悩みが吹っ飛ぶと、人は俄然力が出ます。希望が湧きます。未だユダヤ当局の問題も、トマスとの確執も未解決なのに、すっかり解決されたかのように何でもなくなった。そして実際、復活のキリストに出会った後、1つ1つが解決されて行きます。克服されていきます。主体である私たち人間の問題が解決されると、ゆっくりであっても確実に変えられて行くのです。
「あなたがたに平和があるように」と言われました。ヘブライ語ではシャロームです。これは神との平和、神の支配から来る霊的な平和ですが、キリストの平和が授けられると、そこから新しい命あるものが生まれるのです。
「あなたがたに平和があるように」。彼らは、日陰から温かい陽だまりに出たような解放感を感じたでしょう。温かく受け入れられた喜びです。何と温かく、愛情豊かで穏やか、大きな温かい腕に深く包まれたように思えたでしょう。トマスを含む全ての弟子たちは、顔を輝かせて復活のキリストを喜び迎えたのです。暗闇に光が差し込んで来たのです。
(つづく)
2016年3月27日
板橋大山教会 上垣 勝
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