へそを曲げた彼


          「堺は東洋のベニスのようです」(ビレラ)。但し500年以上前の堺です。
              季節にはこの川岸から「さかいのんびりクルーズ」が出るようでした。
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                                                    大胆な信仰 (上)
                                                    ヨハネ20章24-29節


                              (序)
  今期でAさんの役員の任期が切れますので、今日はAさんの最後の司式です。先程の招詞は普段よりかなり力が入っていましたね。昨夜しっかり練習をして来られたのでしょう。感謝します。無論長い文章は目が極めて悪くなられたので、詰まり詰まりで、じれったいと思った方もあったかも知れません。しかし私はAさんが司式をして下さる度に、Aさんがお読みになる所を、普通の人なら4、5回読めるのにと思って、Aさんの大変さから自分の生き方について、色々考えさせられて来ました。私たちはもっとゆっくりしっかり生きてよいのでないか。先へ先へと競争し、大急がしの人生の様な生き方でなく、遅くても大地に足をつけた自分らしい生き方であっていいのでないかとAさんから教えられて来ました。

  先日は車椅子の講習をB子さんがして下さり、本当に素晴らしい平和集会でしたが、今度は視力障害者の方はいつもどう言う生活をしておられるのかを、私たちが目隠しで歩いて体験する平和集会をぜひ持ちましょう。あの人のことは分かっていると思っている隣人が、どう言う不便や悩みを抱えて生活しておられるのかを少しでも味わって見て、隣人のことを考える機会にしましょう。

                              (1)
  前置きが長くなりましたが、イエス様の復活を、ユダヤ人への勝利でなく、死に対する勝利を覚えるイースター礼拝に、今年も皆さんと連なることが出来て嬉しく思います。

  イエスの十字架の処刑後、弟子たちは大変恐れ不安でした。今日の所にもありますが、直前の19節に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」とある程、彼らはユダヤ人に怯えていたのです。そんな彼らに復活のイエスが現われて状況は一変し、恐れは勇気に、悲しみは喜びに、絶望は希望に変わり、最終的にはペンテコステで見違えるほど勇敢になって行きます。。

  だがイエスの顕現の時に生憎(あいにく)1人の弟子は居なかった。それがディディモと呼ばれるトマスでした。ディディモとは双子のことで、前の訳は双子と訳していました。

  トマスが家に戻るや他の弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と顔を輝かして告げたのです。復活のイエスに出会った弟子たちは驚き怪しむと共に、再会できた喜びと感激の余り、トマスにこう告げたのでしょう。羨ましがらせるためではありません。ただ感激の余り彼に告げた。「ほかの弟子」とは他の弟子たち全員でしょう。

  それを聞くと、主の弟子からぬことですが、彼の心に言い難い嫉妬の念が咄嗟(とっさ)に生まれたのです。自分1人だけが疎外されたと思ったのでしょうか。生来の疑い深さ、実証されなければ決して信じないという懐疑癖も重なり、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と口走ったのです。他の弟子たちは、彼がそう取るとは全く考えず、興奮し喜びに溢れて言っただけですが、彼は臍(へそ)を曲げた。それで一旦言い出せば決して引かない彼の強情さを思い出して唖然としたのです。

  彼らが唖然とする中、「君らは何をお目出度いことを言っているのだ。俺はこの目で見なければ決して信じない。この指をイエス様の釘の穴に差し入れて調べなければ、そんな子供じみた話を信じられるか」と息巻いたのです。目で確かめ、指で触れ、脇腹に手を入れて探って確証が得られなければ、俺は断じて信じない。

  彼は現代の科学的実証主義の走りとも言えます。古代人も死人の復活は信じられないものでした。確証がなければ、自分はイエスの復活を否定すると主張したのです。

  信仰は雰囲気で入るものではありません。また、皆が信仰に入るから自分も釣られて入るものでもありません。そういうのは人が離れれば易々離れるでしょう。一人一人が納得し、確信し、理解して信仰に入るのであって、トマスのように自分の目、自分の判断で信仰に入り、一人一人別々であることが保証されているのがキリスト教信仰の世界です。

  手を犂(すき)に掛けて後ろを振り返るような優柔不断はおかしいですが、手を犂に掛ける前は、自分の信仰に責任を持つために熟慮すべきです。

       (つづく)

                                          2016年3月27日




                                          板橋大山教会 上垣 勝



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