天使が力を添えてくれました


   大阪・忠岡町の面積はたしか4㎢。今では全国で一番小さい町だということです。
      今も大津川が町の水源のよう。この水源池の周りには昔は林があって終日よく遊びました。
         古里には赤面するような思い出が1つ2つはつきものです。

                                              (右端クリックで拡大)
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                                                   行きなれた祈りの道 (中)
                                                   ルカ22章39―46節


                              (2)
  さて、それからイエスは、「石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください…』」とあります。

  石を投げて届く程と言うと、3、40mでしょうか。坂下の駐輪場からこの講壇の場所ほどの距離です。小学生でもソフトボール投げで5、60mを投げる子がいますが、その子は強肩です。私たちが駐輪場の所を通る時、イエス様はこの坂の上の教会の講壇辺りで祈っておられたとお考え下されば、イエスが身近になるでしょう。

  イエスは膝まずいて祈られました。「主の祈り」はいつも祈られたでしょう。31節以下にあるペトロのため、また他の弟子や他の人々のための祈りもされたでしょう。今日なら、地球温暖化や難民のための祈りもされたかも知れません。

  地球温暖化と言えば、今朝のテレビで30年前から山中湖は全面凍結しなくなったと言っていました。今年の2月の地球の気温は近年にない高さだったとNASAアメリカ航空宇宙局が発表しました。地球の表面温度が、長期の平均温度より1.35度も高く、今年はとうとう氷山が北極海を覆えなかった、至る所で氷のない海が現われたそうです。ヨーロッパの別の機関も、別の表面温度のデータから2月が最高の気温であったとしています。

  地球温暖化は人口問題、食糧問題、紛争と平和問題に直結し、私たち個々人の生き方にもつながって来ます。イエス様が生きていれば、地球温暖化についても語り祈られたでしょう。

  しかしゲッセマネの祈りは、イエスご自身の使命、ご自身と神との1対1の関係の中で担わなければならない重大な使命についてです。初めに、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。

  「取りのける」とは、十字架の死が余りに重く厳しい試練なので、私は負えません、取りのけて下さいではありません。青息吐息でアップアップして、取りのけて下さいと祈られたのではありません。

  そうでなくて、弟子たちの信仰はいまだ未熟です。イエスが十字架の杯を飲んでもその死が無駄になり、神の犠牲が無駄になってサタンの勝利で終わるなら、サタンの力が全開されて人類を覆うことになればどうなるでしょう。それではイエスの死ぬ意味がありません。イエスが死を恐れているのでなく、悪が勝利することを恐れ、こう真剣に祈られたのです。

  だがそれに続いて、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。これは、たとえ一時的にサタンが勝利したかに見えても、ご自分の死と引き換えに、神がサタンを打ち砕いて下さるなら、私の願いでなく御心のままになさって下さいという意味です。イエスの祈りは、壮絶な戦いの様な祈りです。サタンとの決戦の祈りと言っていいでしょう。

  その祈りは率直です。父なる神に信頼を寄せる故に、率直に本心から祈られたのです。

  このことから教えられるのは、イエスの関心はひたすら神にだけ従うこと。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なる神を愛することであられました。この無条件的な神への愛こそが、隣人を助けることにつながっています。

  これは私たちにも言えるでしょう。神が唯一、真に心を向けるお方である時に、隣人の問題が真に我が事柄になります。またそうでなければなりません。ひたすら心を神に向ける。神と過ごす時を持つ。これが隣人への関わりに力を授けるのです。

  「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」とありました。

  天使が力づけると、イエスは益々悶え苦しみ、祈りの戦場とも言うべき苛烈な苦闘を一層激しくして行かれたのです。血の汗を滴らせて懸命に祈られたのです。「切に」とありますが、これはお湯がグラグラ煮え立つほど激しく全力を尽くす意味です。汗が大量の血の滴りのように地に落ちたとあるのは誇張でないかも知れません。

  ここで不思議に思うのは、天使が力づけたのだから、もっと安らかになってよかったのでないか、天使にねぎらわれて、もう少し落ち着いた祈りをなさってもいいのでないかと思う人があるかも知れません。

  だが事情は反対です。イエスのサタンとの苛烈な決戦の様な祈りを、底から持ち上げ支援するかのように、天使が天から現われてイエスを力づけた。天が味方してイエスを力づけた。それゆえ一層熾烈(しれつ)に苦しみ悶え、祈りは苛烈になり、激しく沸騰せんばかりに切に祈って行かれたのです。

  力づけられて苦しみが軽減し、イエスも肩の力を抜くことが出来たというのでなく、ますます苦しみ悶え、いよいよ熱烈に力を注いで祈られたのです。「汗が血の滴るように地面に落ちた」のです。イエスは自分の勝利のために汗を流されるのではありません。一切は全人類の救いのためです。信じる者の罪が取り去られ、贖われて、神の救いが成就するためです。他者のための愛の汗です。

  この祈りに力を添えるために天使が現われ、イエスの祈りが、益々苦しみ悶え、人類を救う祈りの戦場となって勝利するために、天使が来て支えたのです。

  日本の植民地統治下の朝鮮で、神社参拝に反対した多くのキリスト者が投獄され、殺されました。私の知人の父親は3年間投獄され、冬は零下10度、15度になる床もない土間の牢獄で過ごしました。冬には指が凍るのです。凍傷です。だが春になると凍った指が解け始め、やがて腐って悪臭を放った。それで切断します。しかしまた次の冬は残った指がカチカチに凍る。その統治の酷さに胸が痛みます。すみません、お赦し下さいと、土下座して言わざるを得ません。どこの国も植民地ではそんな事をしたんだなどと決してシラを切ってはならぬことです。

  ある朝鮮人牧師が投獄されて奥さんが面会に行きました。その面会で夫人が語ったのは、「お父さんあまり無理しないでよ。体に気をつけてね」ではありませんでした。「お父さん、決して屈しては行けませんよ」と言って励ましたのです。真のねぎらいとは何か。無理しないでよと言うことか、決して屈しないでねと言うことか、どちらが一体愛が深いか考えさせられます。

  この天使の力づけも同じでした。真剣な祈りや励ましにはそういう所があります。

         (つづく)

                                          2016年3月20日



                                          板橋大山教会 上垣 勝



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