もう武器の話しはやめよう


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                                                  リュックと財布とナイフ (下)
                                                  ルカ22章35―38節


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  さて彼らの答えをお聞きになると、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と言われました。

  イエスは先ず、「しかし今は」と言われました。今は初めて伝道に派遣した時と、事情が異なるとおっしゃりたいのです。ですからある日本語訳は、「今は事情が変わった」と訳しています。前回は伝道実習ですが、今は、命を掛けて実際に信仰を生きていく時です。そこには暮らしが必ずあります。それを無視できません。その時の心構えをここに語られたのです。

  そこで今は、財布も袋も持ち、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」とさえ言われたのです。まさに以前と事情が違います。今は、イエスが殺される危機の時、人々の敵意が強まる時でもあります。その時、「財布、袋、剣」を備えなさいと言われた。

  財布とあるのは財布ですが、袋とあるのは旅の袋、当時はショルダーバック、日本流に言えば頭陀袋ですが、今ならリュックサックでしょう。そして剣。剣と聞くと戦いの武器、戦闘用の剣を思います。しかし、「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と言われたような剣です。古着を売っても今なら千円にもなりません。女性たちのお召しの洋服は数万、数10万円しますか?でも男どもの普段着は1万円程度。中古になれば二束三文。そんなお金で名剣を買える筈がありません。せいぜい果物ナイフか、錆びた短剣ぐらいです。

  これは戦闘用でなく、旅人の必需品です。果物の皮をむいたり、紐を切ったり、食用に魚や獣を殺したり皮を剥いだり、薪の小枝を切ったり折ったり、時に獣や賊に襲われた時の護身用にもなるでしょう。剣を買えと言われた、武器を買えと言われた、戦闘に備えよと命じられたと取るのは勇み足です。そういう拡大解釈によって、今日、剣も必要、防衛用ミサイルも核武装も必要という所に発展させてはなりません。イエス武装蜂起のために剣を買えと命じられたのではありません。

  その証拠に、マタイ福音書では、「剣を取る者は、剣で滅びる」と言われました。剣を用いた戦いを準備せよと言われたのではない。今日の個所の少し先、51節でも、イエスの傍にいた者が大祭司の僕に切りかかって右耳を切り落とした時、イエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と弟子を強く諌め、「僕の耳に触れて癒された」と書かれています。イエスは戦争や暴力を望まれなかったのはここからも分かります。

  その後イエスは37節で、話しを別の所に持って行かれました。「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」 と、36節の剣から話題を変え、ご自分について書かれている事は必ず実現すると、言葉を重ねて語られたのです。イザヤ書53章は、「彼は人となり、犯罪人の一人に数えられた」、口語訳では「罪人の一人に数えられた」と書いていますが、主なる方が罪人の一人に数えられる程、私たちの暮らしに密着して下さったと語るのです。

  主ご自身が神の栄光を捨て、一人の罪人として数えられる所まで、人と同質になって下さった。そこまで低くなって人を愛しして下さった。その愛が十字架で実現すると言葉を重ねて強調されたのです。

  ところが、弟子たちは37節の言葉を耳にしたに拘わらず、話しを剣のことに戻して、「主よ、剣なら、このとおりここに2振りあります」と言ったのです。そのために話が難解になったのです。

  もう一度言いますと、弟子たちは37節のイエスの言葉を聞きながら、それには耳を貸さず、「剣なら、ここに2振りあります」と剣のことに話しを戻そうとした。

  そこでイエスは、「それでよい」、その話はもうそれでいいと。剣、戦い、戦争と話しを発展させんとする弟子たちにうんざりして、もうそれでいい、その話しはそれで止めよとおっしゃったのです。

  イエスは、ご自分が有利になるために剣を持って相手との関係を打開しようとされないのです。イエスは、目的達成のためには手段を選ばずという在り方を廃されたのです。そんな生き方はもうそれでよい。そうイエスは言われたのです。2千年前のイエスは非常に斬新です。これが2千年間、世界を牽引して来たのです。無論逆行もありました。教会の中にも剣必要論や必要悪の論議が出ました。しかし繰り返し、繰り返し世界史は原点のイエスに戻って少しづつ前進して来ました。イエスの言葉はそういう新鮮さをもって人類に問いかけ続けています。

  言葉を代えて言えば、イエス様は、本当に人間らしく生きること。神は、人を神に似せて造られたとあるように、本当の人間になることをここでも求められたと言っていいでしょう。本当の人間になるためには、恐れから自由にならねばなりません。恐れから自由であると、暴力で問題を打開しようとしません。嘘をついてその場をやり過そうとしません。心を他人に開いて、相手と本当に人間らしい関係を築く者になることが出来る筈です。それが出来ないのは、個人においても、国においても、精神性が低くて幼児性を抜け出していないからです。

  イエスは、まだ十分分かっていない弟子たちを抱えて、最後の晩餐の後、祈るためにオリーブ山に向かわれました。だからここには人間的に見れば弟子たちが理解しないゆえの深い寂寥感が漂っています。孤独な、寂しいイエスです。だがイエスは人の心にあるものをよくご存知だったからでしょう。それを寂しさ、寂寥感と被害者意識で受け取らず、ご自分が担うべき人の罪として彼らの罪を負って行かれるのです。

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  終わりに、「服を売ってでも剣を買え」と言われたことについて少し別の視点から申しますと、ここにはもっと深い意味が含まれているかも知れません。パウロは後の手紙で、「御霊の剣を、すなわち神の言葉を取りなさい」と語っているからです。そのような霊的な意味でイエスの言葉を理解すれば、相手をやたらと切りつける剣でなく、自分も他の人もその前で正されるために必要なみ言葉の剣です。神の言葉による心の武装を指して「服を売ってでも剣を買え」とおっしゃった、外観よりも内側をしっかりとみ言葉で装えとおっしゃったと取ることが出来ると思います。するとこの言葉は、あなた方はマルコ福音書で、「自分自身の内に塩を持て」とおっしゃったことにも通じます。

  何故そのようなみ言葉による剣や心の武装、自分自身の中に塩を持つことが必要かと言いますと、私たちはしばしばタガが外れてしまいます。高齢者、若者に関係なくうっかりするとタガが外れます。Ⅰテモテ5章で言われるような、「おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話し出す」くだらない人間になってしまうからです。そうなれば御霊の剣、神の言葉どころか、クリスチャンどころか、知らぬ間に人を傷つける者になっていないとも限らない。

  クリスチャンが御霊の剣、神の言葉を取るのでなく、人を傷つける剣の方を取ってしまっては遺憾千万です。それはイエス様を傷つけ、再びイエスを十字架に付けることになりかねません。そのために自らがみ言葉の剣によって裁かれまた砕かれ、み言葉の剣によって癒されまた養われ、み言葉によって新しくされて行くことが重要なのです。

  「リュックと財布とナイフ」。主の山に備えあり。来週は棕櫚の主日、イエスが弟子たちとエルサレムに入場された日曜日を迎えます。み言葉の剣、神の言葉を取って、大胆に全身を掛けて信じ進みましょう。イエスを信じ、信仰にあってしっかりとこの世において生きていきたいと思います。

        (完)

                                           2016年3月13日


                                           板橋大山教会 上垣 勝



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