君のために祈る方


                          セザンヌ①(ルーブルにて)        右端クリックで拡大

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                                                   君のために祈る方 (下)
                                                   ルカ22章31―34節



                              (3)
  ところがこの時の彼は、まだイエスの言葉が本当には分かっていません。イエスの言葉を聞いて直ちに、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言い出したのです。

  大変勇ましい覚悟です。投獄も恐れず、死んでもいいと血気盛んです。だが、この勇ましさにも拘わらず、イエスはペトロを見抜いておられました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 雄鶏は明け方、3時か4時頃に屋根の上に止まってコケコッコーとけたたましく時を告げます。夜明けを告げる雄鶏の声が遠くから聞こえると、今では田舎の村や田園のノスタルジーを感じさせられます。だが3度知らないと言ってしまったペトロには、恐るべき閻魔(えんま)大王の罵声のように聞こえたかも知れません。

  「心は熱すれど、肉体弱し。」やがて彼は大祭司カヤファの庭で3度屈します。死んでもいい!その決意さえ崩れる。それが肉体を持つ者の弱さです。

  3度というのは、ダメ押しということです。1度目はまだ自力回復の可能性があったでしょう。2度目でも、血反吐(ちへど)を吐く思いで、イエスの弟子であると公言する可能性は残っていました。だが3度の否定に至ってしまう。その時は万事休すです。イエスはそれをシモン・ペトロに予告されたのです。

  シモンは全く思いがけない言葉を聞きました。だが自分の弱さを見通しておられると分かったのは、この時でなく、3度知らないと言ってしまった後でしょう。その時、イエスは意地悪で言われたのでなく、私への愛のゆえに、あの時、あそこまで語られたのだと悟ったでしょう。その時になって初めて、「私は、あなたの信仰が無くならないように祈った」という言葉を噛みしめ、深く味わったに違いありません。強がりで生きるな、地に足を着けて生きよと勧められた主の愛を悟ったでしょう。

  彼は勇ましいことを語ったのです。だが勇ましく勇猛果敢の信仰でなく、イエスは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練達を生み出し、練達は希望の信仰を生み出すような、地に足がついた信仰を求められます。イエスは勇猛果敢を否定されません。だがそれはしばしば口先だけで長続きしない。もっと地に足が付いた、生活の中での信仰が大事です。

  今の日本はどういう方向に進んでいるのでしょう。いつの間にか、原発も廃止の方向でなく、稼働の方向へ向かい、40年で廃炉の事さえ否定されかねません。事故前に戻り、恐ろしいことに60年の運転さえ言う人がいます。言論の統制もジワジワ進んでいるようです。日本の周辺事態を危機的に論じることに焦点が当てられ、日本が戦後長く取って来た平和外交の掛け声が消されかけています。日本の歴史が修正され、子ども達に教えられようとしています。

  大正デモクラシーは軍部の台頭によって、昭和に入るや後退し、軍国主義に屈して行きました。ドイツではナチスが政権に着き、雪崩のように勢力を伸ばす中で、ドイツの教会もやがて屈して行きました。良心的な人々が拘束され、言論統制で自由にものが言えなくなり、人々は仕方なしに従って行きました。言論統制というのは非常に怖いことです。真実が語られず、曲げられるからです。

  ボンヘッファーというドイツの牧師がいました。戦争が終わる直前に処刑された人です。教会の中では50年程前から盛んにその書物が翻訳され、読まれて来ましたから、よくご存知の方もいらっしゃるでしょう。生前に公けにされた書物だけでなく、特に密かに外に持ち出された彼の獄中書簡によって、戦後の世界の教会は多くの影響を受けました。

  彼の歩みは地に足がついてあそこまで行ったのです。彼は最初から獄に入って死んでもいいというような、勇猛果敢な人でなかったと言われています。むしろしばしばためらい、揺れ動き、あれこれ逡巡して、あそこまで行ったのです。ヒットラー暗殺計画です。行ったというより主に導かれたのです。彼も背後から粘り強く祈られるイエスに支えられて、あそこまで行ったのではないでしょうか。その歩みが戦後、多くの人たちを励ましたのです。

  シモン・ペトロは、3度に渡って主との関係を否定して、取り返しがつかない所まで行ってしまいます。堤防が決壊する寸前まで行きました。いや決壊しました。だが、イエスは鋼(はがね)のような祈りを持って、粘り強く彼のために祈られたのです。その鋼の祈りが彼の脱落を免れさせたのです。

  無論私たちのためにも主イエスは切に祈っておられます。その祈りは、いかなる者をも、再び立ち直った時に、再びお用い下さる粘りある祈りであります。私たちはこの背後からの祈りに信頼してよいのです。この祈りに支えられているから、私たちは今日まで信仰生活を続けることができたのです。

       (完)

                                           2016年3月6日


                                           板橋大山教会 上垣 勝



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