強靭な背後の祈り


                          ルノワール③(ルーブルにて)       右端クリックで拡大

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                                                   君のために祈る方 (中)
                                                   ルカ22章31―34節



                              (1)
  さて今日はペトロの離反予告を学びますが、題は「君のために祈る方」です。無論ペトロのため、そして私たちのために祈る方がおられると言う意味です。

  31節には、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」というイエスの言葉がありました。

  イエスはペトロを、ペトロという綽名(あだな)でなく本名で呼ばれるのです。それは紛れもなく彼の存在に、今その存在自体に向かって言われたからで、イエスの真剣さを垣間見ることができます。

  昔は米も麦も、実(み)と籾殻(もみがら)を篩(ふるい)を使って分けました。風があると籾殻は飛ばされ、実は重いので下に落ちます。その様にサタンは弟子たちを小麦のように篩(ふるい)にかけることを願って許されたと言うのです。

  ペトロはイエスの筆頭弟子です。彼でさえ、サタンの篩(ふるい)にかけられることが許されたのです。ましてや私たちは篩(ふるい)を逃れることは出来ないでしょう。それを思うと、背筋に戦慄が走る思いがします。

  イエスはそう言って、直ちに、「私は、あなたの信仰が無くならないように祈った」と言われたのです。私たちの信仰生活のバックにイエスの祈りがあります。言わば川が増水して堤防が決壊せんばかりになっている時に、イエスの鋼(はがね)のように粘り強く確かな祈りがなされる。いわば無数の確かな土嚢で水が堰き止められ、堤防が決壊しないよう、氾濫がくい止められるのです。

  「あなたの信仰が無くならないように祈った。」この言葉に千鈞(せんきん)の重みがあります。私たちは自分を振り返れば、中身の薄い、実のない信仰生活を送っているのではないでしょうか。いかに信仰が強い人も実に小さい事でグラグラしています。サタンの篩(ふるい)にかかれば一たまりもないかも知れない。だが、私たちの背後に巨大な岩盤のような主の確かな祈りが控え、それによってキリスト者は支えられているのです。私たちがサタンと対決するのでなく、キリストが私たちの前面に出て対決して下さる。2つの力は拮抗しているかに見えるかも知れない。だがどんなにサタンの力が強力に巧妙に見えても、イエスの鋼鉄のような祈りがサタンの業を最後的に打ち砕き、乗り越え、勝利して下さる。それが主イエスの祈りです。

  ですから、私たちもいかに信仰がぐらつくことが起こっても、時には一部のクリスチャンへの失望が大きくなっても、その失望を越えて教会を通して働かれる主イエスを信じて進んでいくことが出来るのです。

  ヘブライ書10章の、「約束のものを受けるために、あなた方に必要なのは忍耐である」とのみ言葉に励まされて進みたいと思います。

  詩編84篇6-7節に、「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」とあります。素晴らしいみ言葉です。勇気を出そうと努力して踏ん張って頑張るのではありません。「あなたによって」勇気を出すのです。神を支えとして勇気を出し、心に広い道を見るのです。神に導かれて、広い道を意志的に信仰的に見出すのです。すると「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」のです。

  嘆きの谷にある道は細く狭いでしょう。殆ど人は通らず、道なき道があるのみです。そこはまた暗く鬱陶しい場所です。だが、主なる神を信じて勇気を奮い起し、「心に広い道を見ている人は、何と幸いなことか」と語るのです。彼は、彼女は、「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とする」からで、暗く窮屈な場所であっても、その所に若々しい甘い泉が湧き出し、元気が回復される場所が生まれるのです。嘆きや愚痴ばかりの人生でなく、喜びと感謝、歌と生命のある場所になるのです。

  いずれにせよ、その背後には主イエスの強靭な祈りが存在するのです。

                              (2)
  そこでイエスはシモン・ペトロに、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と語られたのです。あなたはサタンの篩(ふるい)にかけられて慟哭するでしょう。だが、イエスの祈りを受けて立ち直り、信仰を回復したら、あなたはその回復力を持って兄弟姉妹を力づけてあげなさい。自分が得た力を自分だけに用いず、与えられた希望の力によって人々を力づけるのです。

  一度は篩(ふるい)にかけられ挫折しても、イエスの強靭な祈りに励まされて立ち直ったら、他の兄弟姉妹を力づける使命を与えられる。挫折で消極的になり、いつまでも気に病むのでなく、艱難がかえって忍耐を生み出し、忍耐が練達を生み出し、練達によって希望が与えられる生活になって行く。その信仰によって、他の人たちを力づける使命が与えられていくというのです。

  繰り返しますが、神は挫折した者をも、挫折から得た苦い、貴い経験を持って、一層豊かにお用いになります。神は激しい慟哭を経験した者をお用いになるのは、慟哭を経験した者こそ、同じ慟哭を味わっている者を助けることが出来るからです。同じ苦悩を味わい、同じ屈辱にまみれた者でなければ、真に助けることは出来ないからです。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」とはこういうことでもあるでしょう。

  冬の寒風に吹き晒(さら)され、ようやく春を迎えた木々は、芽を出そうとしています。寒風が寒ければ寒いほど、膚を刺す冷たさに耐えれば耐える程、春が来れば元気ないい芽を付けるでしょう。

  再び繰り返すと、イエスは1度挫折した者にも新しい使命を授けられるのです。シモン・ペトロの生涯は、その挫折の向こうに更に広い使命の世界が用意されていました。使徒言行録はその貴重な証しを記しています。


       (つづく)

                                           2016年3月6日


                                           板橋大山教会 上垣 勝



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