惨めさの只中に立っているもの


           最高裁判所の構内にあり貴重な彫刻と思って撮ったらゴミ箱でした。    右端クリックで拡大
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                                              そんなことあっちゃならねえ (下)
                                              ルカ22章19-30節
       

                              (3)
  しかし聖書は、そこで終わっていません。その言葉を耳にした弟子たちは、「自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」

  これは当たり前でしょう。仲間の誰かが裏切るというのです。それは誰かと疑るのは当然です。だが当たり前だからこそ、ここに問題が潜んでいます。イエスご自身は、まだそれが誰か固く口を閉ざしておられるのです。安易に口にせず、名前を胸に秘められたのは、本人が悔い改める可能性があると思われたのではないでしょうか。イエスは最後の最後まで、ユダが戻って来ることを忍耐して待っておられたからではないでしょうか。

  ところが、弟子たちの間で、誰が犯人かと犯人探しが始まったのです。今やイエスの語られた過越の食事の喜ばしい、福音的なより重要な意味の方をそっちのけにして、悪者は誰かと議論を始めた。

  恵みを忘れての犯人探しです。人間社会はこう言う事例に満ちているのではないでしょうか。何も生産的でない。むしろ分裂に次ぐ分裂が起こる。しかし私たち人間は愚かにもそういうことを行なってしまうのです。

  だが、ここでも終わりません。24節では続いて、「自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」と記されています。

  犯人捜し、続いて誰が一番偉いかとの論争。ある注解者は、「これは福音書中、最も痛恨に耐えない出来事の一つだ」と語っていますが、本当にそうです。罪に次ぐ罪、罪の上塗りです。泣きっ面に蜂と言いますが、彼らは泣いていません。しかし泣き出したいような醜いことが、最後の晩餐においてさえ起こっているのです。

  「誰が一番偉いか。」口角泡を飛ばして誰が一番偉いかと議論を始めたのです。最後の晩餐は主にある一致の晩餐でした。1つのパンを裂いて分けられ、1つの杯を回して同じ器から飲み、キリストにおいて、みな1つであるのを味わったのです。だが誰が一番偉いかという議論ほど一致の食卓を破壊し、キリストの恵みをダメにするものはありません。「互いに徳を立てなさい」とパウロは幾度も語っていますが、最後の晩餐の場が分裂の場になろうとしたのです。

  人間社会というのは、もしイエスの光が罪に満ちた暗き世に差し込まなければ絶望的なのかも知れません。それ以外のどこに希望があるでしょうか。「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛して下さった。ここに愛があります」とあるのは本当にそうだと思います。世の波風がいかに荒れ狂っても、神の愛こそ私たちを一か所に留め置く確かなブイです。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」この救いの光なしには人類は滅びるでしょう。

  パスカルが、「人間の惨めさを知ることなく神を知ることは、高慢を生む。神を知ることなくして人間の惨めさを知ることは、絶望を生む」と語ったのは、このことと関係しています。彼はまた、「欠陥に満ちていることは不幸に違いない。だが欠陥に満ちていてその欠陥を認めようとしないのは、更に不幸である」と語りました。弟子たちの姿はここにあります。十字架と復活を知らない、挫折を介さないこの時の弟子の姿はこれです。

  しかしまたパスカルは、「人間の偉大さは人間が自己を惨めなる者と知ることにおいて偉大である。…それゆえ、自己を惨めなる者と知ることは惨めであるが、自分が惨めであるということを知ることは偉大である」とも言っています。

  裏切りを仕出かしてしまう弱い自分をまだ知らないこの時の弟子たちは、人というものの現実、その惨めさを知らないのです。だが裏切りの中で自分の惨めさを知り、砕かれ、悲嘆に暮れ、その惨めさの中で主の赦しの大きさを知った時、初めて彼らは信仰者として成長し始めたのです。彼らが信仰者になったのは復活以降です。しかしまた同時に、彼らがまだ挫折を知らぬままイエスによって招かれている所に、彼らの信仰の原点があるとも言えます。

  それにしても、これら一切の中心に罪の贖(あがな)いの十字架が立っているのです。十字架こそ私たちを力づける究極の実在であり、確かなものです。これなくしては、人類に希望はありません。

  ルカ福音書の書き方がそうです。22章をご覧ください。主の恵みを告げる最後の晩餐の出来事が、その前のユダの裏切りと、その後の今日の2つの罪とに挟まれて書かれています。神の恵みは人間の惨めさや挫折の只中で、救いの光を放って輝いているのです。

  イエスはこう言う弟子たちを前にして、「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席に着く人と 給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。…」と言われました。

  「あなた方はそれではいけない。」もしイエスが江戸っ子なら、「そんなことあっちゃならねえ」でしょう。ただこの後のことを話しますと長くなりますので、先週も今週も先送りをしてしまって、「そんなことあっちゃならねえ」ことをしてしまいますが、来週に回したいと思います。

        (完)

                                           2016年2月14日



                                           板橋大山教会 上垣 勝



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