ユダと不倫議員
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そんなことあっちゃならねえ (中)
ルカ22章19-30節
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ところがその時、イエスは、「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」と言われました。
裏切る者は誰かを見抜かれたのでしょう。英語聖書は、「テーブルの上に、私を裏切ろうとしている者の手が乗っている」と、非常にリアルに訳していますが、恐るべきリアリティがある場面です。食卓に裏切る者がいたことが「悲劇を一層悲劇的なものにした」と言われるのは、その通りです。
ただこれはイスカリオテのユダだけではありません。教会で同じイエスの恵みのみ言葉に接しながら、外での生活で彼の言葉を否認するなら、私も裏切り者であるでしょうか。この問いは、ズシリと重く私たちの胸に迫って来ます。自分という者の姿について深く内省させられます。
自民党の男性国会議員が、育休を取ったと話題になった矢先に、こともあろうに妻が出産で不在中、女性タレントを自宅に呼んで不倫をしていた。他の女性とも関係を持っていたのを否定していない。接吻をもって主を裏切るに等しいものです。人間というものの姿を重く内省させられます。
それにしてもユダはイエスを金で売り渡しますが、ペトロも違った形でイエスを見捨て、他の弟子たち全員も主を捨てて逃げ去ります。では覆水盆に帰らず、万事休すなのか。だが、この彼らがやがてキリストの復活の証人となって、人々に希望を与える福音という秘密兵器を携えて全世界に出て行くことになったのですから驚きです。
パウロもキリストを迫害した人間です。だが主は彼をも造り変え、異邦人伝道の担い手として用いていかれました。
人間に起こった挫折。その挫折さえ神は用いられます。いや、徹底的に自分に挫折したその先から、神の恵みのみ業が勢いよく始まる場合があります。むろん甘えたり、安易になっちゃあいけません。しかし無から有を造り出される神の恵みの力を侮ってもなりません。
そういうことが、これらの個所から考えさせられます。
イエスは裏切る者について、「人の子を裏切るその者は不幸だ」と言われました。なぜなら、その者は、イエスが指し示す未来を見ようとしないからです。神がなそうとされることを信じないからです。神の約束に目を留めない時には、希望が見えなくなり、すると神から離れて自分の力で働こうとすることになります。それがユダです。
その典型的人物として旧約のサウル王がいます。ペリシテとの戦いの時に、彼は祭司サムエルが来るのを待たねばなりませんでした。だがいつまでたっても来そうにない。中々来ないので兵が帰宅し始めた。これでは戦に勝てません。サウル王はしびれを切らし、サムエルに代わって自分が礼拝を行い献げ物をします。彼は、自分の手でイスラエルを救おうとしたのです。王である彼は、主でなく、自分の手でこの難局を切り拓こうとし戦争を始めるのです。そこにサムエルが到着し、サウル王は失墜していきます。サムエルは、サウルが本当に主に従うか者か否かを見届けようと待っていたのでしょう。
イエスは磔にされた。だが人の子を裏切る者の不幸は、磔にされた主が復活されたという湧き上がる勝利の喜びに与らないことですから、悲しいことです。イエスから財布を預かって、イエスに信頼されていたのに裏切ったのですから、その分、本当に不幸と言わなければなりません。
(つづく)
2016年2月14日
板橋大山教会 上垣 勝
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