私たちの秘密兵器(下)


         今日、巣鴨駅でミモザの小枝1本が468円。小さなブーケが1千円でした。  右端クリックで拡大
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                                                  私たちの秘密兵器 (下)
                                                  ルカ22章14-23節



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  そしていよいよ私たちの聖餐式と同じ順序でパンと杯が配られます。19節、「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』」

  イエスはパンを裂かれました。昔、聖餐式は「パン裂き」とも言われました。十字架の上でイエスの体が鋭く裂かれたからです。服も裂かれたが、肉体が裂かれました。聖餐式はイエスの裂かれた身体を味わうのです。

  体が裂かれることは、いかに痛く、つらく、苦しく、悲痛なことでしょう。包丁で少し指に傷を負っただけでも分かります。イエスも同じです。だがこの裂かれたパンが私たちの喜びのパンになるのです。キリストの深い傷が私たちの傷を癒すのです。

  トラウマを持つ人に耳を傾け、聴くことによって少しでも癒されれば素晴らしいことです。傾聴で少しでも癒される方があれば嬉しいですから、震災後に被災者に耳を傾ける「お茶っ子」がマスコミで取り上げられ、一時ブームになりました。そこに人と人の出会いがあり交わりが起こり意味はあります。だが、それで本当に深い傷が癒されるのかという問は残ります。イベントとしてはあり得ますし、癒される人もあるでしょう。だが表面的である面も否めません。その様な傾聴で癒される傷は浅く、本当は、キリストの裂かれた身体を味わうというような非日常的な非常に深刻なものによってでなければ、真に深刻な傷は癒されないのでないかと思います。

  体が裂かれれば悲痛な叫びが上がります。十字架ではイエスの絶叫が聞かれました。イエスが激烈な十字架の絶叫をもって私のために裁かれ身代わりとなられた。そのような絶叫と傷が私たちの傷を癒すのです。

  本来この世は絶叫で満ちています。人々は皆、絶叫を隠しているに過ぎないかも知れません。ある知人が20代に、ある女性と付き合っていました。その後2人は分かれ女性は結婚したようです。それから長い年月が過ぎ、2人が50代になって再び女性から電話がかかって来たのです。懐かしさと好奇心から電話で数回話しました。そのうち余り話さない方がいいと思って、電話を取らないことがあった。しかしやはり気にして電話をすると、「明日死ぬから」と言い出したのです。旦那は末期ガンです。女性も腰痛がひどく買い物にも行けません。電話をあなたにしても出てくれない。「電話くれなきゃ、明日、私は自殺する」というのです。脅しです。

  情にほだされて電話で話した。そのうち凭(もら)れかかって来られた。どうすればいいのか。むげに断れば本当に自殺されるのでないか。彼はまだ独身で色々問題を抱えた男です。こちらも、あちらも絶叫しているのです。

  そのどうにも出来ないすき間で、イエスが絶叫して下さっている。埋めて下さっている。その女性はイエスの絶叫に触れなければ癒されることはないでしょう。過去の男に凭れかかっても解決はない。人の手では癒すことの出来ない絶叫が人間にはあるのです。

  その絶叫をイエスは叫んで下さった。そこで起こった磔(はりつけ)。それを指し示す私たちのために裂かれたパン、流された熱い血の杯。それが私たちの秘密兵器になるのです。それが私たちの癒すことの出来ない傷を癒すのです。それが私たちの解決できない問題に光を与えるのです。その恵みのパンと杯に与る時、試練や苦難の問題をも神が自分に与えられた十字架として担う勇気が生まれるのです。自分が十字架を担わなければ誰が担うでしょう。凭れかかっても担えません。

  しかしイエスが授けて下さる秘密兵器。ここから希望と慰めが湧いて来、命の力が与えられ、喜びと共に慎みも、大胆さも、冒険も、愛となって働く信仰も生まれるのです。苦しみも痛みも世の不条理も担う力を与えられるのです。

  詩編116篇に、「命あるものの地にある限り、わたしは主の御前に歩み続けよう。 わたしは信じる『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」とあります。堅忍不抜の信仰と言えばいいでしょうか。キリストのパンと杯はその様な力を授けて下さるのです。

  テゼのブラザー・ロジェさんが、「想像を絶する幾つもの試練を通して形作られた人々。どんなことがあっても 耐え、変えることの出来ない全ての状況の中で敢えて耐え忍んだ人々」と語って、彼らがそうであるのは、先ず何よりも「唯一の源泉」があるからですと言っています。その源泉が今お話している秘密兵器です。

  私たちは、周りに物が溢れる時代に生きています。物は簡単に取り替え出来ます。だが人生や人間は取り替えできません。だからこそ、イエスは破れた人生をも担うことが出来る秘密兵器を下さったのです。イエスが秘密兵器であり、イエスが唯一の力の源泉です。

  野球の桑田さんが、長年同僚だった清原容疑者に向けて、「自分の人生でもきれいな放物線を描く逆転満塁ホームランを打ってほしい」と励ましていました。だが清原にそれが出来る筈がないと疑問の声を吐く人たちもいます。

  プロ野球選手はともかく、私たち平凡な人間が最後になって、打ったこともない、人生の逆転満塁ホームランなんて打てる筈がありません。だがどんなに敗れた人生だって、破れを持ちながら神を、イエスを仰ぐことは出来ますし、そこから人生は本格的に始まります。

  イエスはこの過越の食事を弟子たちと共にされます。これは非常に大事な食事です。私たちがたとえ望みがない状態に置かれても、この秘密兵器を味わい、頂き続けるなら、そこから神の命に与り、祝福に与り、平和と感謝のある人生に導かれ、愛と共に希望が生まれて来るでしょう。

  また私たちが順調で有頂天になっている時は、この秘密兵器は私たちを砕き、低くさせ、謙虚にさせ、落ち着きを持って生きることへと向かわせるのです。なぜなら私たちが有頂天になっている時にもイエスは有頂天になられず、人のために磔になっておられるからです。

  即ち、私たちが有頂天になっていい気になっている時、あなたの周りに傷つき絶叫している隣人はいないのですかと問われるのです。この秘密兵器は私たちを謙虚にさせる武器でもあります。

  続きは来週に回しましょう。


        (完)

                                           2016年2月7日


                                           板橋大山教会 上垣 勝



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