私たちの秘密兵器 (中)
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私たちの秘密兵器 (中)
ルカ22章14-23節
(2)
ところで17節は、イエスが先ず、「杯を取り上げ」とあります。何か変だと思いませんか。私たちの聖餐式と順序が逆です。聖餐式はパンが先でしょう。
だが、これでいいのです。信仰の世界また聖餐式は、お茶の作法と違います。聖餐式が千利休に決定的な影響を与えたでしょう。司祭のするミサの所作です。だが信仰は作法ではありません。もっと自由闊達、こせこせしない。もっと本質的なものを目指し、本質的なお方を仰いでいます。
聖餐式の形はいずれでもいい。多様であっていいのです。ただこの後、19節、20節を見ますと、今度はひっくり返ってパンが先で杯が後になっています。要はイエスの御心に沿うかどうか、即ちイエスは杯を感謝してお受けになり、十字架を、血を流すことを御心に沿うこととして感謝してお受けになられたということです。これが一番肝心なことで、聖餐式はこれを味わうのです。
もう一度申しますが、イエスは磔になられる。だがこの期に及んで感謝されたということは、たとえ子供でも、その意味を知れば喜びを感じるでしょう。
さて感謝の後、「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と、もう1度語られました。これがいかに大事なことであったか、その証拠でしょう。
「互いに回して飲み」とあります。英語訳ではシェアーして飲みなさいとなっています。これも私たちの聖餐式と違う仕方です。ブドウ酒が入った大きな杯を回し飲みする。これが本来の聖餐式の仕方です。茶道の世界で残っています。イエスの杯を兄弟姉妹がシェアーして受け、唯一の主なるお方に互いに与るのです。杯とパンを頂くことによって、キリストにおいて一つにされ、一つの家族、一つの体、同じ罪の赦しと恵みに与る者とされるのです。
ヤクザの兄弟の誓いの杯というのがありますが、今ではインターネットでその場面が見れるんです。杯がなみなみ注がれると、北島三郎の「やると決めたら 俺はやる。誠ひとすじ 纏(まとい)に賭けて、度胸千両、 真ごころ千両……からだ一つを投げ出して、それで済むなら お安いものさ」と、ドスの利いた歌が流れます。それは、それは厳かな式です。ただそこには感謝や喜びは感じません。どこか殺気立った雰囲気です。
だがイエスの周りには喜びが満ち、感謝が溢れ、自由が漲(みなぎ)り、恵み、平和、謙遜、和解、柔和、そして信仰と希望と愛が息づいています。
(つづく)
2016年2月7日
板橋大山教会 上垣 勝
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