苦しみという贈り物をいただいた


           イタリア人の友人の長男ピエトロ君は4年生。イスタンブール在住です。  右端クリックで拡大
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                                               水甕(がめ)を持った男 (下)
                                               ルカ22章7-13節



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  さて、過越祭や除酵祭が刻々と近づいている事がなぜそれほど重要かと言うと、イエスは、今や翌日の金曜日には、過越の小羊として十字架につけられ屠られるのです。そのためにイエスはこの「過越の小羊を屠るべき除酵祭の日」の準備をされるのです。繰り返しますが、これは過越の食事の準備であると共に、ご自身が十字架について神の子羊として屠られ、殺される準備です。モーセ時代の過越の小羊というのは、やがて起る十字架のイエスを指し示す徴、いわば予表です。

  出エジプトの過越しの小羊の血は、エジプトの奴隷生活からの脱出、解放のためでした。そのために2本の柱と鴨居に小羊の血が塗られ、初子たちが死を免れたのでした。それに似て、イエスが神の小羊として屠られるのは、罪の奴隷からの私たちの救いのため、罪による死を免れるためです。キリストが罪から私たちを贖い出すため、十字架に付いて代わって裁きを受け、私たちを罪と死から救い出し、解放して下さるためです。

  今や新しい小羊が屠られ、その血によって罪ある者たちを救い出す日が来たのです。新しい出エジプトの日です。そのために家の主人と打合せをし、一切の準備を整えて下さっていたのです。

  この準備は、今日の聖書に出て来る準備だけではありません。歴史が始まって以来、アブラハム、イサク、ヤコブまたモーセ以来、エレミヤ、イザヤ、アモスなどと言った預言者たちをも用い、罪に満ちたすべての人間を救うための諸準備が何千年と整えられて来ました。それらは今、十字架に向かって進み、十字架を越えて復活に向かって進みます。

  イエスは今、過越の食事の遥か向こうに、信じる者すべてに対する希望の徴を見ておられるのです。神の小羊であるイエス・キリストの死。その悲しみの先に復活があり、喜びがあり、歌があります。イエスの苦難、ユダの接吻をもっての裏切り、だがその真っ暗闇の向こうに勝利の復活があり、平和があり、希望が満ち溢れています。それらを遥かに見ながら、弟子たちと過越の食事をなさったのです。

  イエスにとって人生と歴史は、十字架や死や裏切りで終わりません。

  エリー・ヴィーゼルというユダヤ人のノーベル賞作家がいます。少年時代、彼はハンガリーに住んでいましたが、アウシュヴィッツ強制収容所に送られました。しかしナチによる大量虐殺を免れることが出来て、戦後は小説家として活躍して来ました。

  彼はある小説の中で、戦後生き延びて、新しい未来を求めてパリにやって来た若者を描いています。主人公は、友人の勧めでパリにいたユダヤ教の教師ラビを訪ねます。するとラビは、主人公に、君は何を求めて私の所に来たのかと聞くのです。すると彼は、ナチの大量虐殺からやっと生き延びてパリに来た人間で、ずっと泣くことを懸命にこらえて来たのです。余りにも過酷、余りにも悲惨な姿を目の当たりにして泣くのをやめ、涙を断固断ったのでした。それで今一度、「泣くことが出来るようにして下さい」と願うのです。思いっきり泣くことが出来る。それこそ主人公にとって最も人間らしいこと、一番重要なこと、最も願うことだったのでしょう。

  ところがラビは、首を横に振って、「いや、それは十分でない」と語り、「私は歌うことを教えよう」と言って語り始めたのです。青年は、涙の革袋に涙をいっぱいためてラビの前にいます。ラビはよく分かっています。だがラビは、君の悲しみの向こうに喜びが、歌があることを教えようということです。君の涙の谷を越えればそこに希望の緑の畑が続いている事を教えようというのです。人生を涙や憎しみで終わらせるのでなく、その向こうに生きる喜び、友情、希望が横たわっていることを教えようということでしょう。

  イエスは屠られるべき過越の小羊です。だがその悲しみの向こうに人類に与えられる喜びの福音が待っているのです。磔(はりつけ)になって、肉体はボロボロにされて吊り下げられます。だがボロボロに吊り下げられたお方によって人類に希望の福音がもたらされるのです。

  そういう意味においても、イエスは全人類が喜びの歌を歌い、救われるために、正しく準備をされるのです。

  先日の平日礼拝でお話しましたが、7、8年前、皆さんが坐っておられるこの席に、7才の時に交通事故に遭って重度の弱視になったまだ若い方が来ていました。自分など生きていても仕方がないと思うこともあったそうです。しかし大学に進み、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのである」という御言葉と出合って、「あなたは生きていていい」という福音に接したというのです。Aさんという方ですが、これはまさにAさんにとって喜ばしい福音でした。彼女はその後、「障害を、苦しみという贈り物」として受け止めたのです。それで、イエスは自分のことをすべて知っておられるから、雄々しくこれを負って行こう、担って行こうとされました。それで大学を出てから、殆ど目が見えないのに銀行に勤めることができて英文翻訳の仕事をし、大山教会に来ておられた時は更に通訳の勉強にチャレンジしていました。

  彼女にとって、交通事故は、大変大きな出来事でした。7才の子どもは小学1年生でしょう、その日常が激変し、普通の小学校から盲学校に移り、一生治らない不便な生活が始まったわけです。生涯を変える事件でした。

  ところが彼女は信仰を持つようになって、生き方が決定的なほど前向きに変えられたのです。「障碍を、苦しみという贈り物として受け留める。」この信仰的な受け止め方が、彼女を最後決定的に変えたのです。目がほぼ見えず、声も細く、外見は弱々しい感じの方でしたが、静かな中に非常に積極的、前進的な魂を感じました。派手な方ではありません。地味です。だが静かな闘志を内に持った方でした。イエスによって自立し、他の人に甘えない人でした。信仰者とは甘えない人です。いっつも人に頼り甘えてばかりで自立していない。その信仰はおかしいのです。キリストと差しで向かい合っていれば自立します。少なくとも切に願います。彼女はまた、弱い人の味方になろうという意志を持っておられました。本当に心の温かい人というのはこう言う人でないかと思わされました。

  その後北九州に移られましたが、この方のことを思うと、神様は彼女にも準備しておられたのでないかと思います。「障碍を、苦しみという贈り物として受け留める。」従って、神様は、自分を弱い人の味方となって奉仕するように準備しておられたのだと受け留めて行かれたのだと思います。

  だがこれは彼女だけではありません。私たちのためにも何かを準備しておられるのです。それを見分ける目、それを聞く力を持ちたいと思います。その様な良い目と良い耳とをお与え下さいと祈って行きたいと思います。

  自分の気持ちに沿うようにでなく、主の御心に沿うようにという風に追求していくのです。そこに人としての成長があり、また用いられて行く道があると思います。自分の我流に従うのでなく、神のご意志に素直に従って行く、そこに信仰者としての成長も待っています。

     (完)

                                    2016年1月31日



                                    板橋大山教会 上垣 勝



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