非生産的な 夜を大切に


                      東京芸大の卒業制作展に行って来ました       右端クリックで拡大
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                                               水甕(がめ)を持った男 (中)
                                               ルカ22章7-13節



                              (2)
  ところで、どうして水甕(みずがめ)の男なのでしょう。間違って別の水甕の男の後をついて行かないでしょうか。また水甕の男が見つからなければ一体どうなるのでしょう。

  当時は普通、水汲みは朝一番か遅くても午前中に終わりました。太陽が沈む頃にほぼ水を汲みません。「除酵祭の日が来た」とありますから、夕方に男が水甕を運んでいるのです。なぜ夕方かと言うと、ユダヤの1日は午後6時、太陽が沈む時から1日が始まります。

  頭がごちゃごちゃになる方がおられるかも知れません。ユダヤでは、日本のように朝から1日が始まるのでなく、夕方6時から1日が始まるのです。1日の最初に夜があります。夜があって、朝がある。「夕となり、朝があった」と創世記にある通りです。これが彼らの1日の過ごし方です。

  夜は行動をやめ、眠る時間です。だが彼らは夜を大切にするのです。約8時間、働きをやめるのが夜です。その時間は何も仕事をしませんから絶対的に非生産的な時と言えます。だが非生産的な時を彼らは悪と見なさないのです。光が差さない夜は、神が働いて下さる時だからです。人が働きをやめるや神が働いて下さる。ですから夜を排除しないのです。働きをやめ、休む、その時こそ神が働いて人類のために必要なものを準備し、生産への備えもなされる。だから人間が休息する夜こそ一番大事な時と考えるのです。

  ですから、人生でどんなに恐ろしい闇が最初に全地を覆っても、それが人生の1/3を覆ったとしても、必ず神は希望の朝を授けて下さると信じているのです。

  逸れましたが、除酵祭の日が来たのです。今、夕日が沈み、新しい1日が始まる夕刻になったのです。その時間に、都で、水甕を運んでいる男がいるのです。むろんこの時刻でも水を汲みに来る人がいるかも知れません。すると間違えないか。ほぼ絶対間違えないのです。なぜなら、水汲みは女性のする仕事であるからで、めったに男はしないからです。

  男が水甕を運んでいるのは、言わばピンクの女性用の日傘をさして都心を歩いている男性のようなもので、一目瞭然その男だと分かります。そこまで打合せをしておられた。イエスの準備の良さに舌を巻きます。まるでレジスタンスの地下活動の仕方の手ほどきを受けているような個所です。

  男が入って行く家の主人に部屋はどこかを聞けば、「席の整った2階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい」と、イエスは弟子たちに言われたのです。

  当時、エルサレムの比較的裕福な家には2階があったようです。2階にはアパートのように外階段で上がりました。広間とあるのは座敷です。カーペットが敷き詰められ、ソファーとテーブルが整えられていました。このような部屋は集会室に使われました。しかし過越の祭りのような大切な祭りの時期は、巡礼者たちに無料で部屋を貸したそうです。

  こうしてイエス様は家の主人と綿密に打ち合わせておられた。それで2人の弟子が、「行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した」のです。彼らは自分たちの先生のあまりの準備の良さに驚き、安心もし、また苦笑もしたに違いありません。

     (つづく)

                                    2016年1月31日



                                    板橋大山教会 上垣 勝



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