歴史の逆流に終止符を打つ


                   パリのカタコンブの写真が続いてすみません        右端クリックで拡大
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                                                  イスカリオテのユダ (下)
                                                  ルカ22章1-6節



                              (3)
  今日は「イスカリオテのユダ」という題ですが、この個所は一体何を語っているのでしょう。皆さんはどう思われるでしょう。人間の真っ黒な罪でしょうか。サタン的な人間の姿でしょうか。

  イエスは今日の個所にはどこにも出て来ません。その姿は隠れています。それに対し、悪が思うままに跋扈(ばっこ)しています。しかし、イエスが居ないのではありません。背後から統治されるのです。それは見えません。だが次の7節にあるように、屠られる「過越の小羊」として、屠られる事によってすら統治されるのがイエス・キリストです。

  人の心を探られる神は、沈黙を持って一切をご覧になっています。そこでなされ、取引され、息をひそめて様子を窺っている者たちの一切を、つぶさに見て、逆にそれをも用いられるのです。

  ドイツ教会の宣教の様子を宣教師の報告から少し教えられました。初めて知りましたが、ドイツの教会は世界各地に宣教師を派遣していて、世界の地域毎に例えば、東アジア審議会と言うのがあって、東南アジアから中国、台湾、日本、韓国など東アジア全域のことが定期的に話し合われるそうです。私たちの知らない所で、日本やアジアのことが心配され、祈られているのです。

  そこでは、例えば安倍政権下の日本内外の動きを受けて、積極的平和主義でなく本当の平和構築のために、外からどうすれば効果的にアピールできるかを意見交換しているそうです。ドイツ人牧師たちの日本についての情報量は莫大で、また驚くほど迅速かつ正確に紹介されているそうです。そして日本社会が逆行しないように、良い方向を向くように対策が立てられるそうです。

  これは地上の事ですが、神は隠れて沈黙を守っておられても、私たちの知らない所で一切のことをつぶさに見て次の手を打って下さっているのです。

  それから、祭司長たちや律法学者たちの権力は強大で、それに長老たちもグルになっています。そこにイエスの側近のユダも加わる訳で、もう殆ど闇の力には勝てないと思います。

  しかし世界の歴史と言う神の大河の中では、これらは川の隅っこで起こっている小さな渦巻きに過ぎません。神の大河は端っこで時々起る渦巻きや逆流もろとも、歴史の目標という大海に向かって滔々と流れています。どんなものも、神の歴史の成就するのを阻止できません。

  しかも驚くのは、イエスは悪を余り深刻に考え過ぎておられないことです。悪を肯定しておられるのではありません。だが悪はいかに邪悪になろうと、神と支配権を争える程の力だとは考えておられないのです。彼らは体を殺しても魂を滅ぼすことはできません。ましてや悪は人に命を与えることは出来ません。いかなる悪も神のごとき存在になりえません。悪は創造の当初から、神によって限界内に閉じ込められそれ以上は決して振る舞えないのです。安心してよいのです。

  更に、キリスト殺害が暗黙の内に計画され、キリストが出て来ないし、神がどこにも言及されない個所ほど、キリストの御目、神の御目が背後に存在することを私は強く感じます。不在の中で、神の存在を活き活きと感じますし、背後にある愛の深さを感じます。不在の中の神の臨在と言っていいでしょうか。

  私たちは毎月聖餐式をしてパンとブドウ酒を頂きます。私たちはこれらを味わって、確かにキリストがここにおられるということを体で味わうのです。だが、不思議に思えるかも知れませんが、おられる事だけを味わうのではありません。キリストはここにおられないこと、不在を味わうのです(H.ナウエン)。まだ戻られないこと、ここにおられないことをパンとブドウ酒を頂きながら味わう。即ち不在を味わう。そこにキリスト教信仰の深さがあります。

  神は決して強制されません。信じる自由と共に信じない自由もお与えになりました。神を愛する自由と愛さない自由も授けられます。人を赦す自由と赦さない自由、キリストに固着する自由と共に売り渡す自由も与えられます。しかし神は歴史の大河を必ず前進させて行かれます。いかなる悪もこれを阻むことは出来ません。

  この神の恵みの歴史が逆流しないために、イエス・キリストは十字架について、歴史の逆流に終止符を打たれたのです。その出来事がこの22章から23章に掛けて記されるのです。

  私たちは今はこのお方が見えません。しかしこの見えないお方は実在されます。そのお方にどう応答し、神から貸し与えられた人生をどう生きるのでしょう。

  アメリカのルーズベルト大統領は世界的な未曾有の不況が長引く中で、大胆なニューディール政策を行なったことで有名です。その墓碑銘にこう書かれています。「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした。そして彼の光と輝きが世界を明るくした。」

  私たちは人生をどう生きるのでしょう。神が見えないからと言って暗闇を呪うのでしょうか。それとも神が見えず、暗闇がある中で、ろうそくを灯そうとするのでしょうか。

  人生には色んな事が起りますが、それをどう担い、どう生きるのでしょう。それに潰されて生きるのでしょうか。グチを言い、呪って生きるのでしょうか。それとも、暗闇に、希望のろうそくを灯そうとする人になるのでしょうか。

      (完)

                                    2016年1月17日



                                    板橋大山教会 上垣 勝



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