神の国を生きる


カタコンブに地中海の小島にあるマオン宮殿が彫刻されていました。作者は階段建設中の落盤事故でここで亡くなりました。
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                                                   目覚めて祈る (下)
                                                   ルカ21:34-38
         

                              (2)
  「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」今日の中心聖句はこの36節です。

  この後37節以下には、イエスは逮捕も恐れず日中は神殿の境内で教え、夜はオリーブ山で過し、翌朝はまた神殿の境内に行って民衆に教えられたと記されています。民衆も早朝から集まってイエスの話しを聞こうとしたとあります。中には物見高い者たちもいたでしょう。だが大抵の民衆はイエスの教えに感動し強く励まされていたからです。でなければ早朝から集まって来ません。そういうことが37節以下にありますが、今日は36節に焦点を合わせてもう少しお話しいたします。

  36節は、終末の裁きから逃れる只一つの道がある。それはどんな時も神の前に立てるように、目を覚まして祈ることであると語られたのです。

  終末がいつ来ても恐れず、いつ来てもむしろ喜びである。それは、「天地は滅びる。だが私の言葉は決して滅びない」という希望に支えられて生(い)きることから生(う)まれ、この望みに生きる時に、腹が坐り、うろたえず、命を勝ち取ることになるからです。愛の神がおられるからです。

  21章全体でおっしゃるのは、世の終りが来たと誰が強調しても信じるなということです。だがそれと共に、まだ来ないじゃあないか、終末など来ないのだと、神を忘れて世に埋没して生きることへの警告でもあります。終末はいつ来るか分からないが、必ず来ます。その時までどう生きるかはキリスト者だけでなく全ての人間の課題です。

  私たちはこうして毎週教会に集っていますが、教会についても終末が来るまで教会活動をやめることはありません。教会の本質は天に属しますが、終末まで地に存在します。本質は天に所属しますが、今は地にあり、今は天にあるのでなく地にある。そこが大事です。だからパウロは多くの手紙を書いて教会を育てたのです。だから彼は地上にある教会の事に気を遣い、信仰、希望、愛を持って生きるようにキリスト教徒を励ましたのです。

  先週、ナイジェリアから日本に亡命して来て年末に礼拝に出た女性のことを申しましが、大事な事を言い忘れました。彼女は帰り際に、国に帰ればこれだと首を切られる仕草をしました。そしてこう言いました。「私たちの国籍は天にあります。だから怖くありません。私の本当の国籍は天にありますから」と明るく笑って帰って行ったのです。「私たちの国籍、本国は天にある。」フィリピの手紙のこの言葉は、厳粛な意味を含んでいます。しかも厳粛さの中に勝利の喜びが含まれています。この方はこの厳粛な勝利の喜びに生きている方だと、その時に思いました。

  「私たちの国籍、本国は天にある。」このみ言葉が与えられているのは、私たちが人々の間で「神の国を生きるため」です。日本にはナイジェリアとは違った難しさがありますが、私たちも神の国を生きるために世に遣わされています。神の国を証しするのです。家族や職場、社会の中でキリストの香りをどうすれば放てるのか。私たちは、信仰、希望、愛の香りを放つために派遣されているということを忘れてはなりません。

  神の国を今生きるのです。神の国を人々の間で生きるためには、「目覚めて祈る」ことが必要なのです。「目覚めて祈る」とは、別に堂々と祈るとか、感銘を与える祈りをすることを言いません。人に評価されなくてもいいのです。むしろ感銘を与える祈りや評価は最大に警戒しなければならない。霊的な誇りを生むからです。いらぬ自負が生まれ、信仰の落とし穴に陥る危険があります。神は、打ち砕かれ、悔いた心を軽んじられません。人に聞かせる祈り、人に語る祈りはキリスト教の祈りではありません。

  目覚めて祈るとは神に目覚めることです。人に向う祈りは人への訴えであり演技になります。ある人は霊的露出症と言っていますが、霊的露出症はキリスト教の信仰の姿ではありません。

  私たちの心も体も魂も渇いてカラカラになってしまい、行き詰まってしまった時にも、復活のキリストを待ち続ける。これが神の国を今生きることになります。主が来られるのは、私たちの苦しみや試練や悲惨が過ぎ去った後でなく、打ちひしがれている只中に来ておられます。平和が来たからやっと主が来られたのでなく、戦いに疲れ、破れ、傷ついている渦中に主は来ておられるのです。モーセを見ても、パウロを見ても、またイエスにおいてもそうです。

  「目覚めて祈る」ということを十分お話しできたかどうか分かりませんが、イエス様はこれを口癖のように語られたことは、ほぼ同じ言葉がゲッセマネの祈りでも、「誘惑に陥らないように祈りなさい」、「私と共に目を覚まし、目覚めて祈りなさい」と繰り返し語られたことからも分かります。

  終末が来るとか、終わりがあるとかの論議でなく、今の日々を目覚めて祈り、神の国を日常生活で生きることが大事であります。



         (完)

                                    2016年1月10日



                                    板橋大山教会 上垣 勝



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