肝心な事をしないでいると心が乱れる


パリのカタコンブは地下10m。全長何と300Km。紀元前から続いた地下採石場を1700年代以降に地下墓地にしたのです。ドンドン地下に降りていきます。
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                                               喜びと共に新年を始める (中)
                                               ルカ10章38‐42節
       

                              (2)
  するとイエス様は、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」 と諭されました。

  「多くのことに思い悩み、心を乱す」とは、多くの事を気に掛けて心配し、心かき乱すことです。甚だ思い煩って混乱すること、多くの事でやきもきしいらいらすることでもあります。

  さて、ガリラヤ地方でありませんが、マルタとマリアはもしかするとベタニア村のマルタ、マリアと同一人物たちかも知れません。姉と妹がマルタ、マリアであるというのは偶然とは言い難いからです。これは常識破りの考えですが、もしそうならハンセン病のラザロは彼らの兄弟で、マリアは罪の女であったと言う事にもなるでしょう。

  何故こんな常識外れの推測をするかと言うと、マリアが姉の手伝いをせずに、一心にイエスの傍で聞き入ったのは、彼女には特別の事情があり、自分と家族のことで切に神の救いを求めていたからでないかと思うからです。マリア自身がいかがわしい汚れた罪の女であり、家族にはハンセン病、ライ病の弟がいて家の者たちが酷い悩みの中に置かれていた。それで罪がすっかり清められるのを切に願って、イエスのみ言葉に耳を傾けたのでないかと思うからです。

  話しは飛びますが、詩編51篇に、「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎(とが)をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。 」これはダビデが忠実な武将ウリアの妻と通じたことが、預言者ナタンに発覚した時の祈りの詩編ですが、「背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗」って下さいは、千年後の今日のマリアの切なる祈りでもあったでしょう。

  51篇はまた、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」と、自分が犯した一切を神への罪とし、神の目に悪事を犯しましたと痛切に懺悔するのです。

  彼女がマグダラのマリアなら、その町で誰も知らぬ者がない汚れ果てた罪の女でしょう。両親は亡くなり、家には重いハンセン病の弟が隠れ住み、想像を絶する悩みと貧困を抱えた一家です。 彼女は家族を救うためであるとは言え、男たちにわが身を売って汚してしまったのです。

  51篇は次に、「わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとく拭ってください」と祈り求めた後、12節で、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。…御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」と願い求めるのです。

  ダビデの祈りですが、罪の女マリアの「御救いの喜び」を求める切なる祈りでもあるでしょう。自分の内に、「清い心を創造し」とあるのは、自分の力では到底清い心を造り得ないからです。造って頂かなければ、自分ではどうすることも出来ないからです。真実どんなに打ち砕かれた女性であったかが想像されます。また「新しい確かな霊」を頂かなければ、心は弱って、確かさがなくなるのです。「自由の霊」を授けて下さいと訴えるのは、自分の罪の網目から自由になれないからです。それで、じっとイエスの傍でその福音に耳傾けていたと想像していいのでないでしょうか。

  だからイエスはマルタに対し、マリアの肩を持つかのように、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と語られたのでしょう。マリアは今、一番大事な時を過ごしているのです。キリストのみ言葉によって新しくされ、御救いの喜びを授けられ、汚れてしまった心も存在も再び丸ごと清められ、罪赦されて、確かな自由な霊と喜びを与えられて再出発しようとしているのです。それが出来るかどうかの山場を迎えている。

  これは単にマリアの味方をする言葉でなく、マルタにも一番必要なあり方であったからです。だからイエスは、「必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだ」と言われたのです。前の口語訳では、「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」となっていました。

  マルタは多くの事に心を配り、いらいらして、頭がおかしくなっているのです。それは肝心な事をしていないからです。必要なことは多くなくただ一つだけなのです。だがそのただ一つのことをせずに周辺の事だけをしている。それが的外れの生き方になり、心が満たされぬ生活になり、人へのいらいらとなったり、思い煩いとなったり、心の乱れとなり、あなたの最大の課題となってしまっていると指摘されたのです。「必要なことはただ一つだけだ。」これがあなたに新たな道を切り拓くことになると言う事です。

          (つづく)

                                    2016年1月3日




                                    板橋大山教会 上垣 勝



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