兄弟と仲直りする
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一年を締めくくる (中)
マタイ5章21-26節
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今日の聖書はあまり取り上げられない所ですが、山上の説教の中の重要な個所です。これは、イエス様が、周りを多くの群衆が取り囲む中で、特に弟子たちを目がけて語られた戒めで、その意図は、やがて生まれる教会、教会共同体を命あるものにする礎を据(す)えることと言っていいでしょう。
「心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々、キリストのために罵られ迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる時」など、あなた方は幸いであると言われました。この教えも教会共同体を命あるものにする教えです。
13節以下の「地の塩、世の光」の教えも、単に個人的な倫理を教えているのでなく、教会がこの世で命を失わないで存在するためです。17節以下も、旧約と新約の関係、律法学者やファリサイ人たちとキリスト教との関係や違いについての言葉も、キリストを中心とする教会共同体が命を保って世に在るための鍵となるものです。
このように5章20節までは全般的な教えですが、21節からは個別の教えに入ります。その最初が「先ず行って兄弟姉妹と仲直りしなさい」と説かれるこの個所なのです。何事も最初にあるのは最も重要です。これだけが重要というのではありませんが、教会共同体を築いていくには「先ず行って兄弟姉妹と仲直りする」ことが先決だとイエスは言われるのです。その様な教会が命を持つ教会だと言うのです。
仲直りしなければならないような事はありませんと私たちは言ってしまいがちですが、それは避けているだけで、本当は心に溜まっているものがあるかも知れません。「反感」という言葉が出て来ますが、反感とは元の言葉では、「もめごと」であり「しこり」という事です。先程の方のように人は死の直前までそれを隠し持ったりしますが、そのことで「先ず仲直りしなさい」と語られるのです。
テゼのブラザー・ロジェさんは、「先ず行って和解する」とか、「和解は時を待たない」と語り続けました。そうしないと信仰は架空の信仰になるというのです。和解を通して、私たちは福音を生きる者となると説きました。
仲直りは直接しなければ誰も出来ません。嫌であっても自分がそれをしなければならない。他の人は出来ないのです。だから先程のご主人は直接埋め合わせをしたのでしょう。
(つづく)
2015年12月27日
板橋大山教会 上垣 勝
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