10年の難民生活


              クリスマス・イヴのキャンドル・サーヴィスを待つ板橋大山教会
                    24日(木)午後6時30分から7時30分
                          誰でも参加できます
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                                              牧人らの降誕祭(クリスマス) (中)
                                              ルカ2章8-12節
        

  (前回から続く)

  難民はどういう目で見られるか、私たち日本人は殆ど経験がありません。朝鮮民族は日本の侵略で難民を出しています。それは、私たちが記憶しなければならない厳かな歴史です。僅かに戦争末期に、旧満州からの引揚者の苦労が難民の悲惨を映し出しています。引き揚げ中に泣きながら赤子を捨てたこと、食料が尽き思いがけぬ人の親切に接したこと、動けなくなった家族を、心引き裂かれつつ置き去りにして帰ってしまったことなど。その辺に難民にも近い姿があります。

  イギリスの知人が、今月初めにメールをくれて、今年は誰にもクリスマス・カードを送りませんとありました。自分は今、ヨーロッパに命がけでやって来る、数万、数10万の難民たちが嘗めている絶望的窮地を再び追体験しています。幾つかの国では剥き出しの敵意、疑いの目、あからさまな拒絶を経験し、一方、温かい思いやり、好意的な援助の手を差し出す人たちも経験しているのが彼らですというのです。

  彼女自身、人生の最初の10年間に難民を経験したので、特に女性と子供たちのことで気が滅入る程に苦しんでいるともありました。彼らの写真やテレビで語られる話しは、痛々しい記憶を呼び覚ますのです。

  ここまでご紹介すればお気づきでしょう。7年程前、牧師館に数日お留めした、イギリス国籍のポーランド人のボゼナさんです。彼女は、まだ首の据わらない生後数カ月でロシアに逃げ、零下40度になる極寒のシベリアで難民生活を送りました。1年後、やがてロシアを北から南に縦断し、今のカザフスタンウズベキスタンタジキスタン、イラン、パキスタンと、タンタンタンタン、でも淡々とは行かない、各地で難民生活を送って、今度は夏は40度を越えるインドに送られて難民生活。やがてレバノンに移送されて難民生活。そこから最終地オーストラリアに着くまで、10年間の難民生活を強いられたのです。今の難民の人たちも、今後それに似た歩みをなさるのでしょうか。

  ボゼナさんは書いていました。「今、私は強調しなければなりません。極寒のシベリアで、飢えと病気、多くの人の死を経験し、そこから逃亡した後、私たちは至る所で深い同情と温かい憐れみに出会い、窮地から救出するため手を差し伸べてくれる有り難い善意で私たちは助けられたのです。

  最も大事なのは、私たちの尊厳が回復され、尊敬を持って迎えられたことです。何よりも大事なことは、私たちが嘗めた辛苦に満ちた物語りが、人々に信用されたことです。その時、再び自分らは人間だと実感しました。難民にとって安全な地に受け入れられることはむろん大事ですが、人間として接しられ、喜びが戻り、人として尊厳を持って扱われることが最も重要なことです。」

  更にこうありました。「今日、疑いの目で見られ、はっきり拒絶された多くの難民は、人々に信用されず、嘘つきだ、甘えだ、居候だとレッテルを張られ、存在を望まれず、とっ捕まえて収容センターにぶち込み元いた国に送還せよと言われています。だが彼らは家を売り、土地を手放し、先祖からの古里を捨て、逃げざるを得なかったのです。」ボゼナさんは、難民とは言え彼らは人間であり、人としての彼らの尊厳を決して傷つけてはならない。犬や猫や動物たちと同等の扱いをしてはならないと力説しているのです。これらの文章は今日の難民問題に深い示唆を与えるものです。

  いずれにせよ、2千年前の「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」とあり、それが今日もなお繰り返されているのです。それでボゼナさんは、クリスマス・カードを友人たちに送らず、難民救援で働く2つの団体にお金を送りますと書いて来たのです。

  申し上げたいのは、聖書は難民と無関係ではないこと、ヨーロッパのことだとは言え、私たちキリスト者は無関心であってはならないのです。そのことを先ず、2015年のクリスマスに、天に栄光、地に平和あれと祈られるクリスマスに申し上げたいと思います。

                              (2)
  さて、今日の聖書には羊飼いたちが出て来て、「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とありました。

  羊飼い。彼らは都会から離れた田舎で、野宿し、「夜通し羊の群れの番をしていた」のです。眠っていたのでなく、夜通し目覚めて見張っていた。夜通し運転する長距離トラックの運転手のように、居眠りは許されません。オオカミや野獣だけでなく、羊泥棒から守るためです。野獣の胃袋は限られていますが、羊泥棒は羊飼いの命を奪い羊を全部かっさらって行きます。

  ところで羊飼いは、都会に居場所のないアウトカースト、賎民でした。彼らは都会の住民から侮蔑の眼(まなこ)で、何を仕出かすか分からない、信用できぬ奴らと疑いの目で見られました。

  だが低く蔑(さげす)まれる彼らに、いと高き、きよき天の使いが近づき、「主の栄光が周りを照らした」のです。主の栄光とあるのは、神の誉れ、神の偉大で壮麗な輝きのことです。すなわち、何を仕出かすか分からず信用できぬ者らだと、疑いの目で見られていた人たちに、神の栄光が照らされ、キリストの誕生が世界で最初に告げられたという事です。聖書はそう語るのです。

  ですから、聖書が告げるのは、人があなたをいかに軽蔑や疑いの眼(まなこ)で見ても、神は、決して卑しい人間と見なしておられないという事です。信頼と愛の目でご覧下さるという事です。むろん動物でも動物以下でもなく、人として尊ばれ、尊厳を持つ者として扱って下さるのです。

  キリストが指し示す主なる神の素晴らしさは極めて謙遜であること。人の尊厳を決して傷つけないこと。疑いの目でご覧にならないことです。

  最初に飼葉桶にやって来たのは、このように素朴な人たちです。王や貴族や豪邸に住む人たちでなく、野の牧人(まきびと)たちです。クリスマスとは、神は、いかなる人間も尊厳を持つ存在としてありのままにご覧になるという事を告げます。軽蔑されないという事です。

  彼らはよい知らせを聞いたのです。それは民全体に与えられる大きな喜びだったと言います。ところが彼らは「非常に恐れた」とあり、み使いも、「恐れるな」と語ったとあります。大きな喜びなのに、どうして恐れたのでしょう。

  「身の丈を知らず」という言葉があります。彼らは身の丈を遥かに超えた神の栄光に打たれて、喜びを越えて畏れる程であったのです。即ち恐怖でなく畏怖です。尊厳なお方の前での畏れです。少し難しく言いますと、神の御子が人となられたことの奥義が栄光となって彼らを照らしたのです。だから不可知なものへの畏怖、恐れとおののきを抱き、存在の深い所から心打たれておののいたのです。

     (つづく)

                                             2015年12月20日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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