天国への窓


                           セーヌ川クルーズ            右端クリックで拡大
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                                                    天国への窓 (下)
                                                    ヨハネ福音書1章14-18節
      

                              (2)
  15節は洗礼者ヨハネのことを語りますが、既に6節以下で触れましたから今日は飛ばしましょう。で、16節は、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とあります。

  聖書は、言葉のあらん限りを尽くしてキリストの恵みの豊かさを述べようとしているのです。ある英訳は、「恵みで満ち溢れた蔵の中から恵みを次々と」と訳し、別の訳は、「満ち溢れて充満する恵みから、恵みに恵みを受けた」としています。

  飼葉桶に伏されたキリストの恵みは、何と気前いい恵みでしょう。イエスは「受けるよりは与える方が幸いだ」と言われましたが、そういう気前いい恵みです。自分を愛してくれる者を愛したからとて、どんな良いことがあろうか。徴税人でもそんなことはする。自分の兄弟だけに挨拶した所で、どんな優れたことをしているだろうか。異邦人も同じことをしていると語り、自分にしてもらいたいことを人にもしなさい。父なる神は、「善人の上にも悪人の上にも、太陽を輝かせ、雨を降らせて下さる」と語られました。その様にしてキリストの気前いい恵みを、恵みの上に恵み授けられたのです。

  17節は、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とあります。これはユダヤ教を思って語っているかも知れません。ユダヤ教の会堂は律法を、モーセの掟を説きます。だがキリストの教会堂では恵みと真理が説かれたからです。

  モーセの戒律は厳しく容赦ありません。時には敵の絶滅を語り、敵の赤子を地面に叩きつける所まで行きます。それは決してキリストの福音ではありません。それは自由や喜びを授けません。民族と国境を越え、全世界の人々に与えられる恵みと真理、神の義と平和は、キリストを通さなければ決して現われる事はありません。

  話しは飛びますが、旧約の民数記に、バラムとロバの話しが出て来ます。旧約聖書は難解な所があるかと思うと、一幅の名画のように誰の心にも残る印象的な個所もあります。無味乾燥な所が永遠に続くのかと思うと、辺りがサッと開けて、目の覚めるようなオアシスが現われたり、広大な平原に出たりします。深い密林があったり、読むのも困難な砂漠のような辛い個所があったり、歴史があったり、詩があったり、謎々や金言があったり、恋愛の歌かと思うものもあります。それが旧約の面白さであり、人生の面白さでしょう。

  バラムは異国の預言者ですが、別の異国の王バラクから、イスラエルを呪って欲しいとしつこく乞われます。だが彼は神に従う預言者で、王や有力者に取り入る偽預言者ではありません。彼は再三バラクに乞われますが、その度に神の許しがないので断るのです。

  そうするうちに神の許しが出て、バラク王の所にロバで出掛けるのです。ところがバラムが出掛けると神の怒りが燃え上がったのです。神がお許しになったのに怒られたのです。だが彼はそれを知らずに進んでいると、ブドウ畑の狭い通路でロバは立ち止まって動かないのです。ロバの目に、抜き身の剣を持って立ちはだかっている神の使いが見えたからです。バラムはロバを鞭打つと、ロバは剣を持った神の使いを避けようとして、狭い通路の石垣に身をすりつけたので、バラムの脚もこすられて負傷します。バラムは更に鞭を奮うと、ロバは遂にそこに座りこみます。バラムは怒りに燃えて叩くと、ロバが語り出すのです。印象的な場面です。民数記22章に書かれていることです。

  昔、九州の教会に赴任した駆け出しの時代に、在日韓国人と結婚して日本に来ていた韓国の婦人がいました。中学、高校生の娘、息子ら4人は非常に優秀でした。ある時、婦人が、バラムとロバの所から、「どうしてバラムは、バラクの所に行ってよいと神に言われたのに、彼の上に神の怒りが燃え上がったのですか」と問いました。

  今考えると、もしかすると彼女は、神の怒りと言わぬまでもそれに似た何かを感じていたのかも知れません。あくまで私の推測ですが、おそらく「恐れずこの在日の男性と結婚しなさい」という言葉を聞いたか、そういう思いで彼女は結婚したのでしょう。というのは、夫は日本のヤクザの組の幹部であったからで、結婚後20年ほど経つうちに、どこか神の怒りのようなものを感じたのでこんな質問をなさったのでないかと、今になって想像します。

  私はその男性との結婚やヤクザについて今触れません。ただこの婦人は、ヤクザと結婚しながら信仰を貫いて来たことを知って頂きたいのです。子供たち全員を信仰に導きましたよ。あっぱれな女性だと私は思います。

  この婦人がこんなことが出来たのは、「言(ことば)は肉となり、私たちの間に宿られた。その栄光を見た」とあるように、言がイエスとなって受肉したその栄光に活き活きと触れていたからでしょう。だから普通でない環境の中で信仰を貫き、思いがけぬ所へと導かれたのです。

  別に勧めませんが、ヤクザと結婚しちゃあいけないと言えません。高級ホテルのフロントで働いていたのですが、愛が生まれたのですから仕方がありません。それに数年前に夫は亡くなりましたが、その愛はずっと真実であったし、夫も妻が信仰を貫くのを許しました。そして子供も熱心に教会に通い受洗しました。夫はそれを許したのです。地上に受肉したキリストはこういう常識を越えることをもなさる方なのです。

  「父の懐にいる独り子なる神、この方が神を啓示された」とありますが、婦人はこのお方を通してまことの神を知り、このお方こそ彼女を天国に導く窓であったのです。神を知りたい方は、イエスの所に行かれればいいでしょう。イエス・キリストは神の御心を端的に啓示しておられ、天国を覗(のぞ)く窓であるからです。

  イエスは神を啓示する、天国に向かって開かれた窓ですと申しました。だが高い天井の丸窓のような窓でなく、卑しく貧しい家畜小屋こそ天国への窓であり、卑しいはしためと大工の間に生まれたイエスにおいて天国への窓が開いているのです。

  ベツレヘムの家畜小屋は私たちの普段の日常生活の只中にあります。そこにキリストがおられます。クリスマスの星はこの寂しい村の上で留まり、博士たちを導いたのです。

  ある人は、「待降節とクリスマスは鍵穴のようだ」と語っています。この鍵穴を通って、天上の古里の光が地上に差し込んでいるのです。

  律法はモーセを通して与えられました。それは、モーセが神から受けて解釈して語ったのであって、純粋な意味で神ご自身の言葉ではありません。それは恵みと真理であるどころか、モーセの限界であり旧約の限界です。しかし家畜小屋で言が肉となり、受肉されたお方は、父なる神の栄光を反映する独り子として栄光が溢れています。

  私たちは信念を持つのは大切です。しかし単に自分の信念の中に錨を降ろすだけでは不十分です。なぜなら信念も時代と共に変化し、時代と共に崩れ去ることさえあります。自分の信念でなく、歴史の中にご自分を啓示下さった神に錨を降ろさなければなりません。このお方に錨を降ろす時には、いかなる時代、いかなる状況に置かれてもたじろぐことはありません。このお方が、私たちの知らぬ思わぬ方向へと連れ出し、そこで信仰を受肉させて下さるのです。恐れることなく信仰を抱いて生きていきましょう。

        (完)

                                             2015年12月13日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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