気高さはあるか


                        セーヌ・クルーズ船の客たち          右端クリックで拡大
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                                                    天国への窓 (上)
                                                    ヨハネ福音書1章14-18節
      

                              (序)
  日本最初の知的障碍児の福祉施設は滝乃川学園だそうです。立教女学院の教頭であった石井亮一というキリスト者が北区の滝野川で始めた施設で、今は国立に移っています。

  滝乃川学園の2代目学園長は石井筆子という方ですが、筆子さんは明治10年代にフランスに留学し、津田梅子の学校でフランス語を教えた人です。「鹿鳴館の華」と詠われ、小鹿島という高級官僚と結婚した才媛です。そして娘3人を授かります。だが2人は知的障害、1人は虚弱で生後すぐ天に帰ります。しかも、後を追うように夫も35歳の若さで亡くなったのです。

  娘2人を滝乃川学園に預けていたので、筆子はその後も学園を支援しますが、やがて園長の人間性に惹かれて再婚し、石井筆子になったのです。そして日本最初の知的障碍児・障碍者施設のために骨身惜しまず特に教育に尽力したのです。

  娘3人が死ぬと、筆子さんは墓の墓標に、漢語で「鴿無止脚還舟」(鳩は脚を止める所がなく舟に還る)と刻みました。ノアが箱舟から最初に放った鳩に似て大地に足をつけることなく天に還った子らを覚えて、神に委ねたのでしょう。

  20代はさぞ飛ぶ鳥を落とす勢いであった女性です。だが障碍児を持ち、夫と死別し、知的障碍施設の園長と再婚し、ここが神が自分を呼んでおられる地だと、特に知的障碍児教育に打ち込み人生を掛けたのです。信仰者にとって信仰の受肉は、思いもしない所へと導かれます。イエス様は弟子たちを、「私について来なさい」と言って招かれましたが、イエスに具体的に従う時には、予想もしなかった場所へと導かれることがあるのです。

  「言は肉となって」とありましたが、私たちの信仰の受肉について先ずこういうことを考えさせられました。

                              (1)
  さて14節は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とありました。

  「宿る」とあるのは、暫らくの宿りです。間に合わせの天幕に住むことです。狐には穴があり空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所すらないとおっしゃったことが反映しています。

  それにしても「言は肉となる」とは、何たる非常識でしょう。言語道断な発言です。設計図が建物になるとか、企画書が実践に移されたというのなら納得できます。だが、神の言が肉となったというのはあまりにも酷い考えです。

  だがロゴス・キリストは肉を取り、ベツレヘムの家畜小屋に宿りました。旅の途中、宿に泊まれず、人の好意で湿った家畜小屋を提供され、人知れず生まれられたのです。温かい産湯、柔らかな肌着もなく、手馴れた産婆もいない、冷たい風が吹き抜けるがらんどうの小屋です。父と母がどんなに不憫に思ったかは書かれていません。想像するだけです。

  ところが、「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と告げるのです。貧しさと不安、困惑と孤独が襲う世界の片隅で、神の栄光が輝き、恵みと真理が溢れていたのです。

  どうして「栄光」と言われるのでしょう。それは、救いようもない貧しい飼葉桶から、ユダヤ教の壁もイスラエル民族の壁も越え、言語や国籍や国境の壁も越え、やがて地上に誕生する教会の壁も越えて、全世界、全ての人を照らすまことの光が輝き出たからです。

  神が肉をとり人となられたのです。人間が神になったのではありません。命の糧・パンである方が飢え、命の泉である方が渇き、神の権威を持つ方が弱くなり、救いである方が低くなり、悩み、捨てられ、殺され給うた。そのことによって造り主なる方は人類を救うこととされた。ここに神の栄光が輝やき、僕となられた神の栄光が輝いたのです。

  王の御殿でなく、飼葉桶にまばゆい「父の独り子としての栄光」を見たと告げています。王の御殿なら警戒が厳しくて近づくのはご法度でしょう。家畜小屋なら志さえあればどんな人でも拝めます。その場所から崇高で気高い光、荘厳で汚れなき光、紛れもなく神々しく、少しの偽りもきらびやかさもない恵みと真理が、飼葉桶から輝いたのです。この世に気高さがあるとすればこれこそ真実な気高さでしょう。

  「全ての人を照らすまことの光」です。神の光は好き嫌いしません。好き嫌いを越えています。神は、光を避ける湿った暗い所に住む虫たちにも生きることを許されるのだから驚きます。私なら目をそむけるようなものにも光を与えられます。

  「まことの光」です。光と闇をチラつかせて人の心を弄ぶのではありません。巧妙に良心に訴えかけて人の心を操り、自分に向かわせようとするのでありません。光は単純です。まことです。真直ぐです。人を操作するために照らすのではありません。無駄になってもまことの光は照らします。

        (つづく)

                                             2015年12月13日



                                             板橋大山教会 上垣 勝



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