痛快な信仰


                         セーヌ・クルーズから(6)         右端クリックで拡大
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                                                神のよる誕生(下)
                                                ヨハネ1章10-13節



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  さて次の12節は、「しかし、言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」と語ります。世には、心ない人ばかりでなく、心から歓迎し受け入れる人たち、神の子キリストの名を信じる人たちがいるのです。私たちも冷たく当る人たちのことばかり気にして、温かく接してくれる人たちに気づかずにいてはなりません。「自分を受け入れた人」とは、忠誠とか忠実という言葉が使われていますが、心から信頼し、口で信仰を言い表して、素朴に真実にキリストに仕えた人たちです。

  その人たちには、「神の子となる資格を与えた」と語られています。「神の子となる資格を与えた。」素晴らしい。素直に考えれば何という光栄でしょう。資格と訳されている言葉は、前の口語訳では「神の子となる権威」と訳されていました。権威というと特権者として威張るような事になれば困ります。それはここの意味ではありません。これは力や威力を指し、元々は神によって「よろしい」とされること、「よろしい、あなたは神の子だ」と認められることを意味します。

  別の角度から申しますと、イエス・キリストを心から受け入れ、その名を信じる時に、神の子とされて神との間で和解が生まれます。すると、心に平和が訪れます。神によって、「あなたはそれでよし」と語られ、神に義とされるなら、そこから心に平安と喜びが湧き上がって来ますから、自然と自信も備わって来るでしょう。資格とあるのは、この平安と喜びの状態でしょう。

  心に平安と喜びがないが、自信だけ持っているというのもおかしなものです。たとえ苦しい事があっても、苦労を担うことも含めて生きる事に喜びがある。父なる神から義とされ、神の子とされていればいる程、それは進んで出来るでしょう。「よろしい、あなたは神の子である。」神による義認を与えられるという事。神の愛を授けられるという事。存在そのものを、神とキリストによって肯定されることが自信につながるのです。

  「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」これ程に喜ばしいことはありません。信仰生活とは、この言葉を胸に秘めて生涯生きる歩みです。

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  更に、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」とありました。

  「血」とあるのは、血筋や血統のことです。血筋や血統や生まれによらず、家柄や家系によってでもなくという事です。次の「肉の欲」は、肉体の欲望や願望、望みです。政治的な経済的なまた宗教的社会的な野望によってでもなくという事。民族的なものも含むでしょう。そして最後の「人の欲」は、学があるとか、才能があるとか、資質がいいとか。そういう人の欲によってではないという事です。

  そういう一切の欲や血統や家柄によってではなく、この人々はただ「神によって生まれたのである」と語るのです。「ただ」神によってのみ生まれた。これが大事です。

  これは、ただ神を起源とし根拠として、ただ神を行動の出発点として生まれたという事です。自分の生き方の根本原理が、ただ神に発するものとして生まれたという事です。

  言いかえれば、自力で、この世的力から生まれたのでなく、そういう下からでなくて、神のみ旨に沿って、上から、全く他力の力で、恩寵(おんちょう)によって、天から生まれたという事です。

  暫らく前に沖縄のことを申し上げました。戦前ですが、シュワルツという宣教師と大久保という開業医のことに触れました。今日は比嘉(ひが)保彦という方についてです。この方は読谷山(よみたんざんorゆんたんざ)出身の方で、師範学校を出て小学校の教員になり、同じ町の方と結婚し36才で校長になっていた方です。優秀な方だったのでしょう。

  出世の途上にありましたが、しかし長女と次女を相次いで亡くして、その悲劇と悲しみに打ち砕かれ、土着の宗教に行きますが慰めを得ることができません。そうする中でキリスト教に出会ったのです。そしてほぼ毎週、日曜日に30キロを徒歩で4、5時間かけて那覇の教会に出掛けて、やがて洗礼に至ります。それから暫らくし、まもなく恩給が貰えるというのに校長を辞任して、長崎の鎮西学院に入学して牧師の道に進んだというのです。思い切りのいい方です。

  2人の子を亡くした奥さんを気遣って、暫らく実家に1人帰しました。ところが実家に帰った奥さんは、夫の親戚から、同じ町ですから、2人の子供の悲痛な死に関して、「この家の血と、お前の家の血が合わないからだ」と酷く傷つく言葉を浴びせられたのです。男尊女卑の時代で、彼女は耐えに耐えて夫を信頼して行くのです。

  ところが、夫が帰郷する度に、言動や表情に変化が現われて来たのです。その不思議な変化は、夫の帰郷の度に訪ねて来る親しい友人らと語る夫の言葉から察することができたそうです。こうして妻は、夫がキリスト教信仰によって誰の目にも明らかに変えられて来たのだと考えるようになり、自分も進んで信仰を抱くようになります。

  そうこうするうちに、先程申しましたように夫はさっさと校長を辞めて、妻を残して鎮西学院に入学したのです。40歳前後です。人生僅か4、50年ですから晩年ですのに。親戚中が猛反対です。しかし妻は夫の決断を支持して、3年間家庭を守り続けました。また3人の子を授かり、その中に伝道者やキリスト教の孤児院の園長、医者などになって世に尽くす子供らが出て来るのです。(一色 哲著「南島キリスト教史」)

  長々、比嘉(ひが)牧師のことを申しましたが、このご夫婦は「血が合わない」という酷い言葉を浴びせられながら、信仰によって血を越えて行ったのです。この世的には血が合わない何かがあったのかも知れません。だが血によらない、血を越える信仰こそ恵みであり、人々が祝福される道であることをお二人は証しされたのです。

  私たちも血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、常識によってではなく、ただ神によって生まれるのです。光はまことの光ですから、その様なことが起こっていくのです。

  私たちも血に縛られちゃあならない、努力して血を越えなければならないというのでなく、キリストは血縁、血統、家系、また肉を越えて下さるのです。そして、「ただ神によって生まれた」者をお作り下さるのです。そして「ただ」神によって生まれる事によって、常識を越えた確かな人生が神によって切り拓かれて行くのです。その先は、恵みの神が切り拓いて下さるからです。神が痛快にも常識を破られるのです。

  血筋や肉の欲、人の欲によって生きるのでなく、「神によって生まれた。」これが私たちの生活と教会の力になります。そうです。神によって生まれたなどという事は理性的には受け入れられないことです。実に非常識です。しかしその時に、私たちは目に見えるものによってではなく、目に見えないものによって進むことが出来るのです。盲目的に進むのではありませんよ。また、明日のことを思い煩わず、キリストを仰ぎ見て、自由さを持って、気前よく進むことが出来るのです。赦しなさい。そうすれば赦される。与えなさい、そうすれば人々は押し入れ、揺すり入れ、溢れる程に測り与えて懐に入れてくれるとある通りです。

  蒔かれた種は、昼も夜も、目覚めている時も眠っている時も、成長しています。私たちが知らない間に神が働いて大きく育てて下さるのです。「神によって生まれた」者たちの間には、そういう痛快な事が起こるのです。

       (完)

 
                                            2015年12月6日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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