心に届く言葉、届かぬ言葉


                  ある日の午後ひとりでした。鳩も セーヌ川から(5)    右端クリックで拡大
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                                                神のよる誕生(上)
                                                ヨハネ1章10-13節




                              (序)
  先週の1節から9節までに、何回も言(ことば)、元のギリシャ語でロゴスという言葉が出て来ました。ロゴスは真理や理性、まこと、世界の根本原理をさすギリシャ語ですが、ここではキリストを指しています。1章18節までは、ロゴスであるキリストの存在と働きを力強くたたえて、ロゴス賛歌と言われるほど、ロゴスであり真理であるキリストをほめ歌っています。

  この言、ロゴスであるキリストは、天地創造以前から神と共におられ、このお方によって天地万物は造られたこと。言に命があり、命は人間を照らすまことの光、闇の世に来て全ての人を照らすまことの光であると語って、この1章は、キリストの深淵な姿を神秘的に語るのです。

                              (1)
  今日の10節は更に続けて、「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と語ります。

  先週申しましたが、この「世」とは、直接的にはこの福音書が書かれた西暦90年代のローマ皇帝ドミチアヌス時代。キリスト教徒に対する極めて激しい迫害、弾圧の闇の時代を指しますが、それだけでなくキリストを十字架につけて敵対するあらゆる時代を指して、この福音書に何と78回も出て来ます。

  その世に、言であるキリストが来られたのです。「世にあった」と語られています。だが、「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」というのです。世界は言によって造られたのです。だが、言が世に存在するのを認めないのです。そこに存在することすら承認しないのです。世にあるのを知らなかったのでなく、知っていてもガンとして存在を認めないのです。言の存在を拒否したという事です。

  言は、いわば自分の家に来たのです。言はその家族を作り、家も家具も調度すべてを整えたのです。ところが家の者らは、言を赤の他人のように扱い、それだけでなく十字架に付けて追い出したのです。イエス・キリストが祭司長、長老、律法学者、また民衆によって、最後に十字架に磔にされて捨てられた事を比喩的に語っているのがお分かりでしょう。

  なぜ、世は言を認めず受け入れないのでしょう。3章に書かれていますが、キリストが居れば、自分の闇が明らかになるからです。罪が暴露されて不都合だからで、光が差していては悪いことはできないからです。だからキリストも真理も十字架に付けて追い出した。

  もし実社会でこれに類した経験をした方がいれば、言、キリストが嘗めた苦しみ、無念さは、いかばかりであったかと想像されるでしょう。

  以前にいた教会に、今は亡くなりお店も潰れたと聞きますが、祖父の時代から食堂を営み、当時、手広く食堂と飲み屋、宴会場を経営していた人がいました。ご本人は父親の後を継いだものの非常に線が細い人で、姉さんの旦那がやり手で、お店を手伝って貰ううちに経営にも口を出すようになり、社長の座を狙っているのでないかと疑心暗鬼に駆られ、酷いノイローゼになって入退院を繰り返しておられました。良い弁護士が付いているのに、本当に気の毒な状態でした。後を継ぐ器量があればいいものの、それがない場合のご苦労も大変だと思いました。

  それにしても、自分のものが他人に乗っ取られることほど怒り狂う事はございません。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とは、それに似ています。

  しかしキリストが世に来て、そのような苦難をお受けになった事には深い意味があります。キリストが私たちの間に宿り、信じ難いほど酷い苦難を受けられなかったら、私たちが苦難を受けた場合、「泣く子と地頭には勝てぬ」と泣く泣くただ諦めたり絶望に身を任せるか、この世を恨んで死ぬかしかない人も沢山出るでしょう。狂って自爆テロまがいのことを仕出かすかも知れません。しかし命であり、闇でなくまことの光である方が嘲笑され、唾を吐かれ、なぶりものにされ、十字架で殺された。そこに大いなる慰めがあります。しかも黄泉の中から復活された。だから私たちは希望に生きる事が出来るのです。試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助ける事がお出来になると聖書にある通りで、自分の弱さを身にまとっておられたからこそ、私たち弱い者を思い遣って下さるのです。苦難を受けたことのない人が、幾ら「大変ですね、分かります」などと言っても、慰めは心に届きませんが、真に苦難をお受けになった方だからこそ私たちの傷が癒されるのです。

          (つづく)

                                             2015年12月6日




                                             板橋大山教会 上垣 勝



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