地べたで生き、考える
セーヌからのノートルダム(1) (右端クリックで拡大)
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かたじけなさに涙こぼるる (下)
マタイ18章1-9節
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沖縄は今、普天間基地のことで政府ともめて、政府が沖縄県を訴えるという酷いことになりました。沖縄の人たちは国から理解されず、苦しんでいると思います。しかし沖縄の歴史を見る時、素晴らしい、気骨ある人たちが出ています。その背景に古くからキリスト教が入ったからかも知れません。本土より13年も早くキリスト教が入りました。日本基督教団が暫らく前に「宣教150年」を祝いました。だが本土での宣教開始から150年であって、沖縄は13年も前に150年を迎えていた訳で、それを無視して150年、150年と言ったのです。沖縄の主体性を認めていない。沖縄の切り捨てですよ。私は執行部の人たちに問題を感じました。
宣教師にしても、明治時代から気骨ある人たちが沖縄伝道をしました。その一人はシュワルツという人です。彼は銀座教会で牧師をし、弘前の東奥義塾で教え、長崎の鎮西学院の院長をした人ですが、沖縄に下って伝道したのです。下ってです。
そこから見えるのは、彼は宣教師としてこの世的出世を望まず、辺鄙な片隅で、一粒の麦として地に落ちて死ぬことを肝に銘じた人であるということです。その土地に自分が必要とされると見るや、決断して自らを捧げていったのだと思われます。パンと魚を差し出した少年のような人物です。そういう人であったからでしょう、彼は沖縄の青年たちに多くの影響を与えました。
その信仰の土壌の上で、例えば、徳島出身の医師・大久保孝三郎という人が沖縄に来て、キリスト教に触れてキリスト者になり、医院を開業し、「貧富の別なく診察を行ない…その患者は…裕福ではない労働者階級であった」そうです。往診に行くと、患者のカマドの薪を観察したそうで、薪の有無で家の経済状態を判断し、薪がない家では薬代を取らなかったそうです。この診療姿勢がキリスト者として島の人たちに影響を与え、患者の中に信仰を持つ人たちが出たそうです。
彼らが沖縄の庶民に向けた温かい「眼差し」、また「悲しむ者に寄り添う」姿は、沖縄社会の一隅を照らしたと言われています。素晴らしいことです。(一色 哲著「南島キリスト教史入門」(福音と世界)参照)
地べたに生き、地べたで考え、地べたに必要なことを行なう。イエス様にパンと魚を差し出した少年も同じでしょう。少年は、イエス様に喜んでいただければそれでよかったのです。この宣教師や医師も同じでしょう。そのことを自分が立っている地べたで考えて、地べたで信仰を素朴に生きた。高くなったり、偉くなったりする必要はなかったのです。
イエス様は、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたのです。これは革命的な考えまた生き方です。私の名のために地べたに生き、地べたから考え、地べたにおいて地の塩として尽くしなさい。天国で誰が一番かなど考えず、キリストの後に従い、小さなキリストとして愛をもって世で生きよ。イエスは、弟子たちや私たちにそう促されたのです。
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そのように語った後、イエスは6節以下で驚くべき言葉を語られました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」大きな石臼なら50kgや60kgは少なくてもあるでしょう。それを首に掛けて海底に沈めるとは、比喩であるとは言え恐ろしい事ですが、主にある小さい者には有り難い宣言です。ここまでイエスは本気で私たち小さい信仰者を愛し、守り、保護して下さるのです。これは本当に在り難く、心強いことです。
更に言われます。「世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」
「躓きの原因となるなら」、片手、片足、片目をえぐり出して捨ててしまいなさい。五体満足で地獄の火に投げ込まれるより、片手、片足、片目になっても命に入れられる方がましだ。6節以下、これほど激しい激烈な言葉が次々と並べられる個所は他にありません。これは、私たち小さな信仰者を躓かせる者たちへの厳しく激しい警告であり、同時にキリスト者自らが自分に課すべき厳しい見張りの言葉です。
そして更に、私たち小さい者への主の労りであり、愛であります。私たちへの励ましであり、支持であり、慰めであり、悲しむ者、苦労する者、労する者、小さな思い煩う者に注がれる温かい眼差しを示すイエスの真情の吐露です。イエスが語られるこれらの言葉に、何と深いいと小さい者への愛が湛えられていることでしょう。しかも弱々しい愛でなく、何と力強く剛毅な愛でしょう。私たちは何と貴い者として守られていることでしょう。それを思うと感謝に堪えません。道端に転がっている何でもない石ころである私たちを、類い稀な宝石であるかのように大切に取り扱って下さることへの驚きです。
私たちはこのキリストの人格的な愛に接する時、感謝が溢れて尽きることがありません。「かたじけなさに涙こぼるる。」そういう熱い思いが胸の中から次々湧いて来るのを覚えます。それは、いかに小さな者をも十字架につくまで体を張って、温かく人格的に愛し、守って下さるかを知らされるからです。
(完)
2015年11月22日
板橋大山教会 上垣 勝
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