かたじけなさに涙
洗礼式
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かたじけなさに涙こぼるる (上)
マタイ18章1-9節
(序)
今年は、求道者会に出席の4人の皆さんが受洗されました。私たちはこれと言って何もしていませんが、イエス様が皆さんの心に微かな細い声で語りかけ、信仰へと導いて下さるのを痛感する年になりました。心を込めてイエス様に感謝し、今日、受洗されたAさんと共に、改めて他の皆さんにもおめでとうと申し上げたいと思います。
今日は西行法師がお伊勢さんに参詣した時に詠んだ歌の後半を題に致しました。後半を題にしたものの、西行法師とは随分違うメッセージになると思います。と言いますのは、西行の歌には温もりある人格的な出会いの喜びはありませんが、「かたじけなさに涙こぼるる」という一点では共通すると思います。そしてそれ以上の温かく人格的なかたじけなさをキリストに覚えるからです。人格的な出会いです。それが仏教とキリスト教の大きな差にもなろうかと思います。
(1)
さて、「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」とありました。
その時とは、どの時でしょう。それで17章を今日の所との関係で色々調べますと、17章22-3節でイエスが2度目の受難予告をなさった、この受難予告の時を指すのでしょう。イエスが今や十字架に付けられて殺され、受難の後、復活される。それを弟子たちに予告された。その時期に、弟子たちが「いったい誰が、天国で一番偉いのですか」と尋ねたのです。
イエスは仕えるために来られました。弟子の足さえ洗い、最後はゴルゴタで強盗どもと一緒に十字架について、そこでも福音を語られました。イエスは徹底して仕えられました。だが、いまだ弟子たちは仕えるより仕えられること、上に立つことを考えているのです。誰が一番偉いかを問題にするだけでなく、天国で一番偉いのは誰ですかと、天国にまで人の上下の価値観を持ち込もうとしているのです。
天国でも人間の序列が問題になるのなら、私は天国をご免こうむりたい。そんな天国は地獄同様になりかねません。だが弟子たちは、自分こそイエスの右大臣・左大臣になりたいとの競争心から、この世の価値観丸出しで聞いたのです。
これは弟子たちだけではありません。人間が集まる所はどこでも、誰が一番か、誰が一番偉いかが問題になり、争いや排除が起こります。偉さとおよそ無関係な暴走族の世界でも、誰が一番強いか、度胸があるのは誰かを比べます。しばしば新聞が、映画界のトップ・スターとか、現代日本の一番優れたピアニストとか書きますが、同じ発想でしょう。新聞記者も競争を煽ります。ですから、まだ十字架の恵みに打ち砕かれていない弟子たちの姿は、この世の縮図だと言って過言ではありません。
イエスは尋ねられて、こんな人間が天国で一番偉いのだと言われず、偉人や傑物でなく、「一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』」と言われたのです。
これは驚きです。弟子たちに面と向い、そもそも君たちも子どものようにならなければ、「決して天国に入ることは出来ない」と宣告された。これには彼らも驚いたでしょう。
誰が一番偉いか、誰が一番上か。キリスト教の学問の世界でもそういう事が日常的に話題になります。だがイエスは、そんな事では「天国に入れないぞ」と言われるのです。
これは比較や違いを全く無視せよというのとは違います。相対的な評価はあります。だがそれが天国での絶対評価のように、最終的評価であるかのように思い込むことの問題性です。究極は神が判断されるのであって、そこまでは人間の分からぬ事として余地を開けておくべきです。
(つづく)
2015年11月22日
板橋大山教会 上垣 勝
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