イエスの絶叫の意味


                          第1小学校作品展から。          右端クリックで拡大
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                                               ぶどう園の労働者の譬え (下)
                                               マタイ20章1-16節
                                                於 王子教会


                              (4)
  早朝6時から働いた者は損だったか。そうじゃあない。人生の早くから、長くご主人のもとで働けたのです。信頼できる主人、「主」の下で安心して一生懸命働くことができたし、働き自体が喜びだったし満足であった。それが何よりも大きな報酬だったのではないでしょうか。詩編84篇に、「あなたの大庭にいる1日は、よそにいる千日にもまさるのです」とあります。信仰を持ち、神の1労働者として人生で働く喜びを声高らかに歌っています。それに必ず最後に賃金が支払われる。その保証の下で働くのは、何の保証もなく生きるのとは雲泥の差があるでしょう。

  今朝は御教会に着くまで少し余裕があり、親水公園に路上生活の人がいて橋下の川辺で暫らく話していました。物流会社で働いたが、その後、建築関係に移り、トビ職になって全国を渡り歩き、起重機も運転するようになり、会社を経営したこともあると言っていました。今は、経営者でも一寸先はどうなるか分からない時代です。70代の方で、色々面白い人生だったと強がりを言っていましたが、この先、そして彼の人生全体は丸々どうなるのかと案じます。もしこの教会に来られてイエスと出会い、「ああ、これでやっと魂に平安を得た」という事になる人かも知れません。

  イザヤ書43章に、「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。…『恐れるな、私はあなたを贖(あがな)った。私はあなたの名を呼んだ、あなたは私のものだ』」とあります。主なる神は私たちに、「あなたを贖った。私のものだ」と愛の言葉をかけられます。私たちの命の主キリストは、悩み労する人に、「私はあなたを愛する。案ずるな、あなたは私のものだ」と語って下さるのです。

  真の贖(あがな)いは、キリストの血による贖いです。「あなたは私のもの」とされるのは、独り子を十字架に付け、神ご自身が自腹を切り、熱い血を流して下さったからです。莫大な出血も厭わず、私たちに仕え、信じる者を義とし、平和を与えられたのです。「恐れるな。私はあなたを愛する。あなたは私のものだ。」神に対して何をどれだけなしたかでなく、遅まきながらでも、からし種1粒の僅かな信仰をもって神の招きに応じる。それを義として下さるのです。神は、私たちの欠け多い小さな信仰にキリストの十字架の貴い命を何倍も上乗せして1デナリとして下さるのです。これが、ぶどう園の労働者の譬え、「この最後の者にも、1デナリを支払う」という譬えで示されたことです。

                              (5)
  イエスは十字架で、「わが神、わが神、何ゆえに、私をお見捨てになったのですか」と絶叫されました。神は、この絶叫を「よし」とされたのです。私たちこそ神に捨てられ絶叫せざるを得ない存在なのに、イエスが代わって絶叫して下さった。その絶叫を神は「よし」とされた。私たちの救いはイエスの絶叫に掛っています。

  北海道では真冬、零下10数度に気温が下がる夜、固く凍った森の木々がカーン、カーンと鋭い音を立てて割れると言います。ある俳人が、「叫びたし寒満月の割れるほど」と詠みました。底冷えのする真冬、大寒でしょう。夜空の満月が青く冷え冷えと冴え、空気も凛と凍てつき、満月は今にもカーンと音を立てて割れんばかりである。作者はどういう問題を抱えているのか私は知りませんが、自分も冴え切った叫びで叫びたいと言うのでしょう。

  私はこの句に、イエスの十字架上の叫びを聞く気がします。その叫びは、世界の歴史の最も寒い寒(かん)の出来事だったと言えるかも知れません。十字架上で、「わが神、わが神」と満月の割れんばかりの鋭い叫びを私たちのために叫ばれた。その絶叫を神は「よし」とし、私たちの罪をことごとく赦し、贖いをなし遂げて下さったのです。

  私たちは自分の手で自分を救うことはできません。イエスは、救い難い罪人を地獄の底から救い出すため、身銭を切って十字架にかかり、莫大な出血をもって、僕のように私たちに仕え、その末に救って下さった。この最後の者である私たちにも、憐れみの1デナリオンを届けるためです。

  イエスが平和の主と呼ばれるのは、このような大きな恵みに私たちを与らせる事によって、平和をお授け下さるからです。社会的な平和と共にイエスが下さる心の平和は、周りの人たちにも尽きない喜びの泉を生み出し、生きる美しさをもたらす(Br.ロジェ)のです。


    (完)

                                             15年11月15日

 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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