一つとなる鍵


愛の南京錠数十万個が掛かるポン・デザール橋とエッフェル塔。後に鍵45トンが撤去され貴重な写真の一葉に
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                                                 一つの体となるために (下)
                                                 Ⅰコリント12章12‐14節


                              (3)
  いずれにせよ、新約聖書には何と100回前後も洗礼という言葉が出て来るのは、いかに聖書が洗礼を重視し、大事にしているかの現われです。

  カール・バルトという人は、「聖霊の業は、永遠に目に見えない業でなく、具体的に目に見える業になる」と書いて、それが具体的に人類の中に目に見える業となったのが目に見える教会であると語っています。それは、キリストが世の中から人々を呼び集め、その人たちが集められた集まりをエクレシアと言いますが、それが教会であるのです。キリストを信じる信仰が洗礼という1つの形を取り、キリスト者が生まれて教会になると言ってもいいでしょう。それは私たちが、「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会…」と使徒信条で初代教会以来2千年に渡って告白しているキリスト教会なのです。

  もう一度申しますと、信仰は洗礼という一つの具体的な形を取って、キリスト信仰を告白するのです。洗礼という目に見える形を取って、目に見えない神を賛美するのです。

  それは神の子キリストも、ナザレのイエスという具体的な肉体を取ってこの世に受肉された事と似ています。バルトはそう語っています。信仰が心の中だけでなく、洗礼という形を取る。そのようにして受肉する。その時、2千年、3千年、4千年と続くキリスト教会が地上に形づくられるのです。

  洗礼は自分から水の中に浸かるのではありません。頭に水を注がれるのは、水の中に沈められることを意味しています。そして水の中から引き上げられるのです。自分で水の外に顔を出すのではありません。私たちはそこでキリストに服従し、このお方が私の唯一の主であることを洗礼を通して証しするのです。

  このことは世界の教会が超教派で一致しています。

  私たちは洗礼において、自分の信仰を証ししますが、それは先ず何よりも、自分の罪を証しします。自分はキリストの内に沈められ、殺されるべき存在であることを証しします。そして、私を沈め引き上げて下さるお方、このお方こそ我らの主、救い主であること、私の歩みを照らして下さるお方、自分の命よりも尊いお方であることを、洗礼において証しし、神に栄光を帰することをやめないのです。

  「一つの霊によって、わたしたちは、…皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」ここに一つとなるための鍵が存在します。


         (完)

                                             2015年11月8日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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