一つの体となるために


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                                                 一つの体となるために (中)
                                                 Ⅰコリント12章12‐14節


                              (2)
  先程は、子どもたちと、「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています」という今日のみ言葉の最後の部分を中心に学びました。今度は大人の皆さんと前半から学びたいと思います。

  この個所はキリストの体としての教会について、パウロが述べた最も重要な個所の一つだと言われますから、これを否定する教会はありません。これを否定すれば、教会の存在基盤を自ら否定することになるでしょう。

  パウロは、教会を体を譬えにして説明します。体は一つである。だが体は多くの部分からなっている。多くの部分から成立するが、体そのものは一つだと申します。

  「部分」とある語は、元のギリシャ語では、体の部分、肢体や器官、また一つの有機体のメンバーを指します。

  確かにそうでしょう。私は素人でよく分かりませんが、体の臓器は大まかに言って数十種類あるそうで、詳しく見ると100種類ほどあるようです。

  いずれにせよ、その一つ一つの働きや形に違いがありそれぞれに特別な任務がある。その多様なものが一致協力しているから、一つの体となって円滑に、健やかに、気持ちよく働くことが出来ます。もし分裂があれば、子どもたちに申しましたようなおかしなことが起こります。

  そのようにキリストの体である教会も、多くの肢体や器官を持った一つの体のようなものだとパウロは言うのです。もう一度読みましょう。

  「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

  私たちは洗礼を受けて、一つの霊を飲み、一つの体に導かれたと言うのです。それは「皆一つの体となるため」であったとあり、「洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」と書かれています。

  「一つの霊を飲む」という言葉は聖餐のブドウ酒を飲むことを想像させますが、ここでは一回的な洗礼においてキリストという「一つの霊」を飲むこと、「一つの霊」に与ることを指します。

  つまり一つの霊に導かれて、私たちはどんな民族、人種、国民であろうと、また奴隷や自由人、男女の違いを越えて、洗礼において一つだと、彼は、人類の間に今も立ちはだかる、多くの厚い壁を越える力強い信仰を言い表わすのです。

  今日、世界のどこの教会に行っても、教派を越えてすぐに兄弟姉妹として温かく迎え入れられ一致できるのは、洗礼を受けているからで、求道者であっても歓迎されます。こうしてキリスト教信仰は、隔ての壁を越える生き方を世界に形成して来ました。

  今日は洗礼について述べられる個所ですが、先週、神の素晴らしい恵みがあって、一人の姉妹が急に洗礼を願い出られたのです。22日に洗礼式を行なうことになりました。一人の罪人が地上で、イエス様への信仰を表明するという事は、天において、地上にまさる大きな喜びがあると聖書にありますが、この喜びを感謝し、この小さな教会で一年に4人もの受洗者を与えられる喜びを思って、今日は聖書は洗礼についてどう語っているかを見たいと思います。

  教会が一体であるのは、目に見えない形においては、イエスを主と告白する信仰によってですが、具体性と現実性を持った洗礼において、教会の一体性が現実的になります。他のものによってではないとパウロは語るのです。

  ローマ書6章をお開け下さると、…お開け下さいましたか、3節以下で、洗礼はキリスト・イエスに結ばれるバプテスマであり、洗礼において、キリストと共に葬られ、キリストと共に甦らせられるからであると述べています。

  キリスト・イエスに「結ばれる」、結合する、与る、繋げられる。このことが洗礼において起こるのだと言うのです。これが重要です。

  主観的に繋(つな)がるのでも、主観的に結ばれるのでもありません。繋げられていると思う事でも、確信することでもない。「キリスト・イエスに結ばれるバプテスマ」とは、「キリストの中へと沈められ、バプテスマされる」という事です。キリスト者とはキリストの中へと沈められた者たちなのです。

  ガラテヤ書3章26節でも、…開けて下さいましたか、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と彼は語ります。

  洗礼を受けることによって、「キリストに結ばれ」るだけでなく、「キリストを着物のように着る」、キリストの赦しと憐れみと恵みに全身覆われる。そのような素晴らしいキリストの命に与ると言うのです。

  私たちが洗礼を受けるのは、シンプルに単純に考えて、キリストが洗礼をお受けになったからです。その洗礼に与るのです。「正しいことを全て行なう事は、我々にふさわしいことです」とイエスご自身が洗礼をお受けになる時におっしゃいました。だから私たちも謙虚にそれに従い、洗礼の恵みに与るのです。洗礼は単純素朴にキリストに従う従順の業です。イエスへの従順です。

  また復活のイエスご自身が、マタイ福音書28章19節以下で、…いいですか、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と、洗礼と福音宣教をお命じになり、次のマルコ福音書16章でも15節以下で、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」と語られたからです。

  イエスご自身が洗礼を受け、イエスが洗礼をお命じになったのです。

  また福音書記者ルカは、使徒言行録も書きましたが、彼は、聖霊降臨が起こった日に、12弟子のリーダー、シモン・ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語って、エルサレムで3千人程が洗礼を受けたと書いています。またその後も、各地で洗礼者が生まれたと証ししています。

  むろんパウロも洗礼を多くの人に授けました。彼自身もダマスコで洗礼を受けています。その彼は、コリントではクリスポとガイオ以外には洗礼を授けなかったと記し、すぐその後で訂正して「ステファナの家の人たちにも洗礼を預けましたが」と、そこだけを取ると洗礼に消極的であったように誤解されますが、彼は洗礼を軽んじたのではありません。そうでなく、彼は洗礼を授けて自分の弟子のような人を沢山作ろうとする売名的な人間でなく、福音伝道に力を傾けて一人でも多く救われる人を作っていきたいと願ったからです。その証拠に、今日の12章で洗礼による一致を明確に語って、この個所はキリストの体としての教会について、パウロが述べた最も重要な個所の一つになったのです。即ち洗礼の上に立っているのが彼の教会観です。


         (つづく)

                                             2015年11月8日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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