死は喜ばしい


                 セーヌ川のクルーズ(2)アレクサンドルⅢ世橋        右端クリックで拡大
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                                                    再臨のキリスト (下)
                                                    ルカ21章25-33節


                              (2)
  イエス様は、この「解放の時」を説明するために、29節以下の、「いちじくの木の譬え」を話されました。これもあくまでも譬えです。私たちにとって、終末の事柄は、今は、鏡に映すようにおぼろげに見ているだけです。おぼろげであり、譬えであるのに、私たちが原理的に固定的に受け取ってしまうと、含みのあるイエスの言葉を誤解して真意から逸れてしまい、ファンダメンタルな世界観・イデオロギーになるでしょう。

  「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」いちじくは初夏に実がなるものと、初夏と秋の2回実のなるものがありますが、普通は4月から5月初めに新芽が出て7月頃に実がなります。芽が出始めるともう初夏です。

  同様に、25節以下の終末の前兆とも言うべき事が起こるのを見たら、「神の国が近づいていると悟りなさい」と言われたのです。ここでも、最後の審判が近づいたと言わず、神の国が近づいたと悟れというのです。見慣れない恐ろしい世界の破局が迫っているのでなく、イエスご自身が、「み国を来たらせたまえ」とお教え下さったあのみ国、私たちにとって嬉しく慕わしいあの神の国が近づいていると語られたのです。

  イエスは十字架に付く前夜、「心を騒がせるな。神を信じなさい」と語り、「私はあなた方のために場所を用意しに行く」、「場所を用意したら、戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」と言われました。そのみ国、神のリアルなご支配があり、顔と顔とを合わせて相見ると言われる神の国が近づいていると言われたのです。

  言葉を変えて言えば、神の国は人間にとって希望の徴です。神の国が近づいているから、喜びを持って生き、主がご支配下さるのだから、真理に背かず、旭化成のように杭を誤魔化さず、フォルクス・ワーゲン社の不正排ガスのように人を騙さず、自己正当化せず、謙虚に生きるのです。それでも、万一間違ったとしたら素直に悔い改めて新しく出直すのです。

                              (3)
  もう一度言います。「世の終わり」、それは恐ろしい異様なものが訪れる恐怖すべき時でなく、「神の国」が到来し、私たちに希望を与えるキリストが来られる時です。

  イエス様はここで、終末に触れて、その時はいかに喜ばしい時かを語ろうとしておられるのです。終末は必ずある。終末はすべての事柄に最後的に正しい決着をつけ、理不尽な事柄にも帳尻を合わせて下さり、正義と愛を貫き、貫徹して下さることによって私たちの目から涙をことごとく拭って下さる時です。

  先週触れましたが、私たち個々人にとっての世の終わりは、死の時でしょう。そして死の時は、キリストとの喜びの出会いの時です。「また来て、あなた方を迎えよう」と言われるお方が、場所を用意してお迎えに来て下さる時です。天国に導いて下さる時です。

  ですから、キリストの福音の光の下で生きる時、死は呪いではありません。恐怖でなく、虚無や無や空ではありません。死者は、福音の光に包まれるのです。そこにあるのは喜ばしい死ですよ。死は、キリストにおいて喜ばしい死となっていくのです。平和な死です。肉体を持つ人間に最後に残る、死の問題の解決はそこにあります。

  バッハのヨハネ受難曲の素晴らしい演奏を先週聞きました。最後は非常に慰め深い歌がうたわれます。まるで子守唄でないかと勘違いしてしまうような、安らかな澄んだ素晴らしい歌でした。

  コーラスが、墓に葬られたキリストに向かってこう歌います。「安らかにお眠り下さい。聖なる亡骸(なきがら)よ。」これが何度も何度も繰り返し歌われて心に迫って来ます。

  そして、「私は今より後、嘆き悲しむことはしません。安らかにお眠り下さい。私をも安息へとお導き下さい」と歌われ、次に、「あなたのこの墓は、私に天国、神の国を開き、地獄を閉ざしてくれるのです」と歌われて行きます。キリストの墓は、神の国への道を開き、地獄を閉ざしてくれる。ここにバッハの信仰告白があります。

  すると最後にコラールが、即ち讃美歌が歌われます。「私の亡骸(なきがら)を、その小さな臥所で、本当に安らかに、一つとして苦しみも痛みもなく、最後の審判の時まで憩わせて下さい。とき至れば、私を死の眠りから目覚めさせて下さい。この目で、限りない喜びの内にあなたを見ることが出来るように…。」素晴らしい信仰の歌です。

  イエスは32節、33節で、「すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と語られました。

  たとえ天地が滅び、地球も宇宙も万物も崩れ去っても、そして私自身が滅びてしまっても、神の言葉は決して滅びず、永遠です。神の言葉は過ぎ行かず、滅びることはないのです。私たちはこの言葉を信じ、帰依し、そのご支配に服したいと思います。

  私たちの肉体は必ず滅び、私たちに死が訪れる日が来るでしょう。もし神から離れて、神との関係を無くせば、私たちは肉体的にも精神的にも破壊され、滅ぼされて、虚無と無に転落するかも知れません。しかしキリストにある時には、私たちは感謝を持って死を受け入れることができるのです。喜びの内に、再び神の国で目覚めることになるでしょう。

  私たちは、今は、鏡を通して見るように、救いも、信仰も、神もキリストも、おぼろげに見ているに過ぎません。しかし、神の国において、私たちは直接、神を見るのです。見るだけでなく、神を味わうのです。神と語り合うのです。そして神の中で憩うのです。

  そしてその時、万物は神から出て、神によって保たれ、神に向かっていることを知るに違いありません。そして、神こそ万物の希望の源であることを知り、栄光が神に永遠にありますようにと、一点の曇りもなく神をほめたたえることになるでしょう。

  私たちの現在はまだ罪にまみれ、汚れているでしょう。救われ切っていないでしょう。だが、その時にはまったき救済が、神のみ手が私たちを包んで下さるのです。そしてその約束が、キリストにおいて授けられているのです。

       (完)

                                             2015年11月1日



 
                                             板橋大山教会 上垣 勝



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